「うーん、いい天気! 良かった!」
---------- あなたのそばで-後編:君よ、どうかその手を離したもう事無かれ ----------
床から起き上がったはふすまを開けて廊下に出た。空を見上げれば雲ひとつない快晴だ。これなら何の問題もなく遠乗りに行けるだろう。
庭ではすずめがちゅんちゅんとさえずり、朝がやって来たことを人々に知らせている。
思い切り伸びをする彼女の足元から、ごそごそと音がして黒い犬が出てきた。縁の下から出てきたのは彼女の愛犬、忍犬の血を引く甲斐犬小鉄だ。小鉄はを見上げ、まるで笑っているかのように口角を上げぺろりと舌を出した。おはよう、と言いながらよしよしと頭を撫でてやると、小鉄は気持ち良さげに目を細める。
そこへ、着替えを持った梅がやってきた。
「おはようございます、お天気で良うございましたね」
「あ、おはよう!本当に雲一つないし、気持ちのいい天気だね」
「ふふ、それでは今日はこちらのお着物をお召しになってくださいませ」
は遠乗り用の衣装に袖を通した。撫子のような深紅の着物にに紺の袴、この動きやすい服が彼女は好きだった。
朝餉を済ませて庭に出ると馬の世話係の下人がの馬、菊花を連れてきてくれていた。大人しいのであまり軍馬には向かないのだが、逆にそれなりに足は速い馬だ。
すぐ隣には既に馬を連れた幸村が控えている。彼はの姿を見つけて一礼した。
「おはようございます。今日は一日供をさせて頂きます」
「おはようございます、こちらこそ、急なお願いを聞いてもらえて感謝しています。では、よろしくお願いしますね」
はありがとうと言って下人から馬を受け取った。菊花は姫の後を付いてきた小鉄と鼻を付き合わせている。まるで馬と犬で何かの話をしているようだ。
今日は遠乗りに行くからお留守番お願いね、とが小鉄に言うと、意味が分かるのか愛犬はその場を離れ、少し離れた場所から座って二人を見送るような仕草を見せる。
そしては鐙に足をかけ、ひょいと菊花にまたがった。何度も乗っているし慣れたものだ。
「では、参りましょうか」
「はい」
二人は馬を並べて躑躅ヶ崎館を出発した。守衛が行ってらっしゃいませ、と頭を下げながら送り出してくれた。
「今日は何処に行かれますか?」
行き先を聞かれたはそういえば、と思った。特に行きたい場所がある訳ではなかったのだ。
「ええと、特に考えていなかったのですけど……そう、景色の綺麗な所とか、幸村の好きな場所があればそこが良いです」
「私の好きな所ですか……」
幸村はちょっと困ったような顔になった。まさかにそんな事を言われるとは思っていなかったのだろう。のほうはなんとなく、いつも行く場所とは違う所に行ってみたいと考えただけなのだが、幸村が困っているらしい事を察した姫はその言葉を撤回しようとした。
「あの、無理なら私がいつも行く場所で構いませんけど……」
「……いえ、少し遠いですが良い場所があります。そこへご案内しましょう」
二人は馬の足を徐々に早めてゆく。が馬を進めながらちらと隣の幸村に視線をやると、彼の横顔が目に映った。今までそれ程意識した事はなかったが精悍な横顔、改めて見るとやはり彼は美男子じゃないか。
そんな事を考えていたら、は昨日くのいちに言われた事をうかつにも思い出してしまった。やっぱり幸村の顔をまともに見られなくなってしまって、あわてて視線を前に戻した。
途中、何度か休憩を挟みつつ二人は目的地に到着した。そこは小高い丘の上で、盆地が一望できる。城下町、田畑、街道がまるで何かの細工のようだ。眼下に広がる景色にはため息をついた。
「わあ、すごい! 絶景ですね」
姫君の感嘆の声を聞いて、案内役のほうも嬉しそうだ。
「お気に召して頂けましたか?」
「はい、今日の行き先はあなたに選んでもらって良かったです!」
二人はすぐそこの木に馬を繋いだ。は景色を眺めながら水筒の水をで喉を潤した。走っている時は夢中で気が付かなかったが、相当喉が渇いていたようだ。
そして彼女は瞳を閉じて深呼吸する。少し汗ばんだ肌にそよ風が心地良い。
大きく息を吐いて、は草の上に腰を下ろした。
あれ、幸村は?と後ろを振り向くと、彼は一歩下がった斜め後ろで立って控えている。は幸村を手招きして呼んだ。
「そんな所に立ってないでこっちに来て座ってください。いくらあなたでも、これだけ走ればちょっとは疲れますよね?」
「いえ、私は供ですからお気になさらず」
やっぱり遠慮した、とは思った。別に父やその他の家臣がいるわけでもないし、のんびりしたら良いと思うのに、相変わらず幸村は真面目だなあ、と。まあ、こんな所が彼らしいのではあるが。
「大丈夫です、私以外は誰も見てませんから。こういう時くらいゆっくりしてください」
ね?と姫君に笑顔で言われてしまっては、さしもの幸村も断れなかったようで。彼は敵わないなと苦笑いを浮かべ、では失礼しますとの隣に腰を下ろした。
「ねえ、幸村」
「はい」
「赤兎に乗ってみたいと思いませんか?」
草の上に寝転んで、は空を見上げる。
少し太陽が眩しくて、手で光をさえぎった。
「赤兎……三國の英傑、呂布の乗騎で一日に千里を駆けるという名馬でございますね」
「そうです。そのような名馬で思い切り駆けたらどれだけ気持ちが良いのかなと。……だから急に遠乗りしたいなんて思ったんです」
は上半身を起こしながら言った。
「もしや……三國志演義を読まれているのでしょうか?」
「まだ途中までしか読んでいないのですけど……それにしても良く分かりましたね」
隣に座る幸村の方に向きを変え、なぜ分かったのかと問う姫君に、彼は笑って言った。
「様は何か新しくお気に召した物があれば、すぐにそのお話をされますから。なのでもしやと」
「……そうでしたっけ? うーん、言われればそうかもしれませんね。幸村は三国志演義、全部読んだのですか?」
「はい。もうかなり前の話ですが……私も一気に読んでしまいました」
「やっぱり!……あっ、私がまだ読んでいない先のお話の事は言わないでくださいね、これだけお願いです」
は顔の前で両手を合わせて、お願いのしぐさをしながら言う。幸村は大丈夫ですよとうなずきながら返した。
「様の楽しみを取ってしまうような事はいたしませんよ。ご安心ください」
姫君は良かった、と言って再び前を向いた。
こんな風に打ち解けた会話を交わせる姫君はなかなかいない。
若武者はそう思っていた。
彼は世に聞く姫君と言えば、近付き難いという印象を持っていたからだ。
人は大切にせよと言う信玄の心は受け継いでいるのか、は家臣に良く感謝の言葉を述べたり、気を使うような様子を見せる。上に立つ者としての器量と、それを感じさせない気さくな所、それを併せ持つの事を幸村は尊敬していたし、また支えたいとも思っていた。
「名馬と言えば、慶次殿の愛馬、松風も名馬と聞き及んでおります」
「本当ですか!? ならば赤兎と松風はどちらが優れているのでしょう……名馬同士の勝負、見る事ができたら良いのに」
楽しげにそんな話をするの横顔に、幸村はふと視線を奪われる。
自分はいつまでこの姫君の側に仕え、この方の無邪気な笑顔を守る事ができるのだろうかと。
お館様や、この姫君の為に命を散らすなら本望だ。それが武田の家臣たる己の誇りだから。
しかしはもう年頃、いつか有力な武将の元へ嫁ぐのだろう。自分が守る手を離れ、遠くへ行くのだ。それは武田の盤石を確固たるものにするために必要な事であるのも分かっている。喜ぶべきことなのだ。
それでも。
が自分の守る手を離れてしまうという事が、なぜこうも自分の心につかえているのか、幸村には“まだ”分からなかった。
「……どうかしました?」
は何か考え込んでいる様子の幸村に気付いて、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「い、いえ。少し考え事を」
「……何か、心配な事でも?」
「様にご心配頂くような難しい事ではございませんので。……申し訳ございません」
「そうですか」
なら良かったです、とは安堵の表情になった。
戦場で、鍛錬中に見せる凛とした顔とは異なる、彼女の飾らないそんなしぐさに幸村の頬も緩む。
は自分が命を懸けてお仕えするお館様の、大切な姫君。そうである事は言われなくても分っている。
彼女も武田軍の有力な将となるための階段を着実に登りつつある。二振りの小太刀を腰に差し、颯爽と戦場に立つの姿が自軍を鼓舞している事も承知済みだ。
だから討たせるわけにはいかない。
何があっても、自分がお守りせねば。それがお館様への忠誠の証にもなるはずだから。
と、若者は己の中で決意を新たにする。
戦乱の世ではあれ、少なくとも明日くらいはこのような日が続いてくれるのだろう、と二人が何気ないひと時を過ごしている頃、この世界に想像もできない程の悪夢の影が、音も立てずに忍び寄りつつあった。
古志城と呼ばれる異世界の城の一角で、一人の女が水鏡を眺めていた。明らかに人の物とは異なる気を放つ妖艶な美女は、千年を生きた妖狐が人の姿を取ったものと言われる妲己。その美貌で皇帝に取り入り、古代の王朝を滅ぼした張本人だ。
彼女はこれから正にこの異世界へ召喚しようとしている人間達を妖術で水鏡に映していた。
三國の世界とやらは先程まで眺めていたが、カリスマに引き寄せられた猛者達、強き絆で結ばれた一族、仁の元に集う英雄達と、しばらくは退屈する事がないようなので彼女は満足していた。
今彼女の目に映っているのは戦国の世、甲斐の国の景色だった。先程目にした館はこの世界でも特に戦上手と呼ばれる猛将の屋敷らしい。もちろん、それは遠呂智の獲物の一つに加えられていた。
「こっちの世界にも、まあそれなりに強そうな人がいるのね。本当に遠呂智様を楽しませてくれればいいんだけど」
そう呟きながら妲己は鏡に映す場所を少し変える。すると、草の上に並んで腰を下ろす若い男女が映し出された。二人は仲良さげに言葉を交わしている。
これから起きる事も知らずに呑気な事ね、と見ていると、この二人はどうもあの猛将の配下、もしくは一族の関係者らしいと言う事が分かった。
「あら、あなた達も遠呂智様の獲物なのかしら? 可哀想」
くすり、と彼女は妖艶な笑みをこぼす。言葉とは裏腹に本当は嬉しい。だって、いたぶる事ができる獲物が増えたって事だから。妲己は肘を突いて水鏡を覗き込む。
あの幸せそうな笑顔、さあ、どうやって悲しみと恐怖に歪めてあげようかな。
「……そういうの、大好きなの。後で壊してあげるから楽しみにしててね。うふふ」
妲己は指先で水鏡を突いた。波紋が広がり、二人の姿がぶれる。
甲斐の国の空はあくまでも抜けるように青い。
この青天は嵐の前の静けさ。
二人はまだ知らない。
異界への門が全てを飲み込み、運命をねじ曲げようとしている事を。
「そろそろ帰りましょうか。急に雲が出て参りましたので、雨になるやもしれません」
「ああ、本当。せっかく良い天気だったのに残念ですね」
幸村の言葉には空を仰いだ。薄くではあるが、雲が空を覆い始めている。
彼女はなぜかその雲に、背筋の凍るような不気味さを覚えた。理由は彼女自身も良く分からない。なんの変哲もない雲のはずなのに。
自分でも理解し難い感情に、の眉が少しひそめられる。
「様、どうぞお手を」
先に立ち上がっていた幸村が、まだ草の上に腰を下ろしていたに手を差し出して来た。彼女は差し出された手をとっさに掴む。彼の手を掴まなければならない、なぜかそんな思いに駆られた。
幸村はの手を力強く、優しく握り返す。
繋いだ手から伝わる温もりは、己が守らなければならないものだから。
歪められた運命を乗り越えるのは、その絆。
君よ、どうかその手を離したもう事無かれ。
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