ここまで付いてきたのは、ただ離れたくなかったから。

 どんな対応を受けるかも分かっていた。
もう戻れる場所もなくなるのだと、知っていて。

 それでもただ、自分の心に素直になって、ここまで来た。

 付いていきたいと言ったときの彼の表情、忘れもしない。

 驚きに満ちていて、訝しんでいて。
どこか嬉しそうだけど、どこか哀しそうだった。
そんな複雑な顔。
いままで見てきた中で、一番困っていた。

 でも最後にはいつもの笑顔で手を差し出してくれたから、迷わず取った、その手を。

 あの時、自分に向けられていた彼の瞳は、いまは全然違うところを見ている。

 間違えたかな?って思ったこともある。
本当に少しだけ、後悔したこともあった。

 けど、笑ってくれるから。

 だから、良かった、って思える。

 何もせず、何も言わなくても同じ場所に居る、この時間を―――――













 「伯約?」

 軽く扉を叩いて、そーっと中を窺えば真剣に机へと向かっている姿がある。
声を掛けてみてもこちらに気付く様子もない。
忙しいのだから仕方がないと扉を閉めてその場から離れた。

 (つまらない)

 ふらふらと歩き彷徨って辿り着いた樹の根元に腰を降ろし、はため息を吐いた。
ぼんやりと空を見上げれば、清々しいほどの青が広がっている。
こんな日には何かしたくなるもの。
それが例え辛い仕事であったとしても。

 (何かないかな〜)

 彼女・は何かしら担当の仕事が終わったわけでも何でもない。
第一に女官のような形をしているが、女官なわけではない。
だとすれば兵士か?とでも思われるかもしれないが、それも違う。
彼女は言わば、ただの一般人だ。
少し妙と言えば妙な城に出入りしている一般人。

 「やっぱり、女官の仕事させてもらおうかな。伯約に黙ってでも」

 元々女官の仕事をしていたのだから、そう考える。
場所が違えば仕事内容も多少は変わるだろうが、それは覚えればいいだけの話。
少しくらいしんどい思いをしても、暇を持て余しているくらいならば働きたい。
自分をここに連れてきてくれた彼を助けるためにも。

 「うん、決めた!頼みに行こっと」

 この場所に来てから一ヶ月の時が経っている。
初めは居心地の悪かったここも、いまとなっては楽しいところだ。
あまり彼の傍から離れないように生活していて、分かったこと。
ここには温かい人が多いのだと。
誰にでも分け隔てなく優しく接してくれる人が。
それに、願いのために頑張ってる人が。
彼も、その一人。

 (だから・・・)

 固めた決心を抱いて、は腰を上げた。
服に付いていた埃を軽く払い落とすと、庭から廊下へと上がる。
向かう先は女官の詰め所だ。

 足取り軽く、は廊下の奥へと消えていった。












 「あれ・・・?」

 一区切りした仕事を脇に除けて、姜維は部屋の中を見渡した。
そこに居るはずの人物の姿がない。
それには首を傾げるだけ。

 (どこに?)

 この城ですることがない彼女は、常に自分の部屋に居たのだ。
それがここ数日、気が付くと居なくなっている。
特別親しい友人なども居ない筈なのに、である。

 (そのうち帰ってくるかな)

 行く場所が殆どない彼女は暫くすると帰ってくる。
これまでもそうだったから心配ない、そう考えて姜維は残っている執務を再開した。

 姜維は、一月ちょっと前にこの国へ来た。
いまは尊敬する師となった諸葛亮の計略で、魏から蜀へと移ってきたのだ。
その時に彼女―も一緒に付いてきた。
魏の城で女官をしていたは、小さい頃からの幼馴染。
ずっと一緒に居て、いろいろなものを共有してきた。
そんな彼女とも別れる覚悟で降ることを伝えると、迷うことなく彼女は付いて来てくれたのだ。
姜維にとって、はかけがえのない存在に等しい。

 (終わった―――)

 頼まれた執務を全て終えた姜維は、窓の外を見た。
もうそこに太陽の姿は影しか残っていない。
ゆっくりと降り始めた夜の帳が、相当遅い時間になっていることを伝えている。

 けれど、部屋の中にの姿がない。

 おかしい、正直に姜維はそう思った。
こんな時間まで彼女がこの部屋に帰ってこなかったことはない。
もしや、どこかで―――――
そう思いながらも姜維は終わった執務を持って部屋を出た。
いまから行く先々で彼女を見なかったか聞きながら回るほうが早い、そう思ったから。

 姜維の期待を裏切るように、誰もの姿を見ていなかった。
逆に部屋に居るんじゃないのか?と聞き返されてしまう始末。
居ないから聞いているのに、と思いながら最後に辿り着いたのは諸葛亮の執務室。
そこで呆れ顔の彼に聞かされた言葉は、充分に衝撃的だった。

 「ならば働きたいと頼み込んで、いまは女官の仕事をしていますよ」










 『自分のことに必死で、彼女を疎かにしていたのではありませんか?』

 言われた言葉が頭から離れなくて、姜維の思考は沈んだまま。
言われるまで気付けなかった自分が情けなくなってくる。

 確かにここ最近、早くこの場所や仕事に慣れることに必死だった。
来た当初こそは余所者として怪訝な目で見られるのを、二人で耐えていたのだ。
それが周りに認められ始めてから、馴染んでいくのに集中した。
それからだ、気が付くと部屋にの姿がないようになったのは。

 「私はを―――」

 居ないものとして扱ってしまっていた。
何度か声を掛けてきていたのは知っている。
曖昧にでも話し掛けられれば、返事くらいはしていた。
けれど執務が多くなるに連れ、重要なものが増えるに連れ、それもしなくなった。

 同じ将軍達に認められて、仲間という存在が出来た自分とは違う。
彼女はここに来てから自分以外と関わっているのを見たことがない。
この場所で彼女が気を許せる相手は己しかいないというのに・・・・・・・・・
遠ざけてしまったのだ、孤独を共にした人を。

 『周りに目を向ける余裕を持たなければ、何をも受け入れられる器になることはできませんよ』

 ズンと重く圧し掛かってくる。
それだけ当たり前のことを言われたのだ。
焦るだけ焦って、大事なものが見えていない。

 『そのようでは、大切な人を失うことになりますよ』

 もう遅いのかもしれない。
現にいま、は自分に何も言わず働いている。
いや、相談しようとしたかもしれない。
それを自分が相手にせず、聞かなかっただけなのか。
どちらにしろ、離れていっているのは確かだ。

 (私は・・・)

 仕事をしているというを捜すのを諦め、考え込んだ暗い表情のまま姜維は執務室の扉を開けた。










 「あっ、伯約!」

 する筈のないと思っていた明るい声が部屋に響いて、姜維はパッと顔を上げた。
目の前には、おかえり、と笑っているが居る。
久しぶりに見たように思う笑顔が、次の瞬間に暗くなった。

 「どうしたの?伯約。疲れた?」

 ほら、座って。と背を押されて椅子に座した。
すると彼女はパタパタと駆けてお茶を淹れて戻ってくる。

 「・・・」

 「ん?何?」

 お茶を受け取って、呟くように呼べば、覗き込むようにして彼女が首を傾げている。
向かい合うように座って、笑みを浮かべて。
どこか楽しそうにしているを見るのは、やっぱり久しぶりだ。

 「その、すまない―――」

 「わたしを放っておいたこと?」

 どうにか謝罪を口にすれば、あっさりと核心を突いてきた。
分かっていたということに驚きながらも、肯定の意で頷く。

 「そんなこと、気にしなくてもいいんだよ。伯約が忙しいの、知ってるから」

 「しかし・・・」

 諸葛亮に言われ、考え、残った不安を曝け出す。
話す間、黙って聞いていたは、終わると笑っていた。
哀しそうに、それでも嬉しそうに。

 「わたしもね、伯約が離れていくのが怖かったの。だから、付いて来た」

 姜維の手を取って、はゆっくりと話し出す。
時折下を向き、表情を変え、心情を語る。

 「こっちに来れば辛い思いするの分かってたけど」

 友達も居ないしね、は苦笑する。
いままで過ごしてきた国を離れた時点で、縁は切れたも同じ。
そのうち敵国の人間として会ってしまうかもしれない。

 「でも伯約と離れることが一番嫌だったから」

 友達はまた作ればいいだけの話。
仕事はまた始めればいいだけで、現にまた始めた。
けれど姜維と離れてしまうと、もう会えない可能性は高い。
会えたとしても敵同士で、殺し合う運命になり兼ねないのだ。
それならば、付いて来たほうがマシ。

 「だからさ、こんなつまんない事で離れたりしないよ?」

 仕事はね、また始めたかったの、伯約を助けるためにも。
そう手を握ったままでにっこり笑うを引いて、姜維は抱き寄せる。
ずっと隣に在ったぬくもりを腕の中に閉じ込めて、姜維は笑んだ。
すっきりとした、安堵も見える笑みで。

 「ありがとう、










 離れなくてよかったと思う。
だからこそ、いまこのささやかな幸せを噛み締めていることが出来る。

 当たり前にあるぬくもりを当たり前ではなくなる怖さを、知った。
知って更に大切さを感じた。
だから、これからはもっと大事にしていけると思う。






 「わたしね、一緒に居れるだけでいい。たまに笑ってくれれば、もっと嬉しいけど」

 「私もだ」







 ―――こうやって共に過ごせる時間を―――










執筆者 : 葵 紫緋様    サイト : 星天流光様

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