公主(ひめぎみ)の表情の移ろいは、本当に少ない。ただ極端なのだと少し付き合えば、誰にでも分かることだ。公主は本当に嬉しいときにしかほほえまない。曖昧な笑みなど見せない。本当に苦しいときにしか痛い、辛いと言わない。泣くことはない。なぜ泣かないのかしらねと姉分の甄姫が言うと、公主は笑う。公主は不思議なことに、男の前と女の前では態度が違った。公主に言わせれば、何ら違わないというのだが女の前では素であり、男の前では構えている。これも、少し付き合えばわかるようなことだ。

 「簡単に揺らぐような、そんな踏みにじりやすい奴だと思われたら嫌だから」
 「あら、それは逆ではないの。鉄面皮だと思われたら何をしても何も感じない、何をしてもいいと思われてしまうでしょうに」
 「それならいいの」
 「いいの?」
 「だって、その方が潰しやすい」

 騎乗したまま、事も無げに公主は言う。

 「女であることが時折心底嫌だけれど、利用できるなら相手の先入観だろうが女の涙だろうが使う。勝利することだけが必要な未来だ」
 「解らないとは言いませんけれどね。――殿に似てきていらっしゃるわね、近頃」
 「そうだね。うん、そう思うよ」

 髪は短く、男装させると公主ではなく、れっきとした公子(わかぎみ)のような娘。清潔感があり、それが人品卑しくはないと見せるのは非常に好ましい。曹丕と並ぶと、実に目つきの悪い兄弟だと酒宴で口走ったのは誰だったか。
 馬を駆ることを好み、武器を持つことに以前は嫌悪を示していたが今は弓矢をぶら提げる。弓矢は相変わらず下手だが、練習熱心。いずれは軽騎兵として張遼預かりになるだろうと曹丕は甄姫に話していた。
 ――曹操が拾った娘は、という。
 拾われた当初は、「完璧な治療を施された後」という奇異な姿だった。白い衣を着ていた。手足をひどく打ったようで、しばらくは動くことが出来ずにいたが一月も横になっていると、「いい加減、動くようになるに決まってる」と本人が申告したとおり回復している。
 伸びやかな身体をした娘だった。子どものように小柄で、体力もあり、鍛えられた精神も持っている。ただ、「わからない」ことばかりだったようで甄姫はさまざまなことを教えた。常識から、生活の仕方まで。は驚くほど無知であるのに、孫子を読んだことがあるというのだから、曹操でなくとも目を丸くしたものだ。
 は、不思議な娘だ。だが、誰もその不思議を解き明かそうとはしない。これには自身も含めている。は「どこか」から来たらしいのだが、あまりそのことについて考えないようだった。理由は、「考えてもわからない」からだ。――は、そういう娘だ。今現在に無用な執着(もの)は持たない。

 「いっていらっしゃい。城外の調練には慣れたの?」
 「まだかな。でも雰囲気はいいね」
 「本当、お母様がお嘆きになるのもよくわかります」
 「甄姫様は夫人に似てきました」
 「ま、言うこと」

 笑うは、本当に気持ちよく笑う。ただし、その姿は女らしい少女らしいというよりも、少年らしく、若い校尉ようだった。甄姫にはそれがただの癖なのか、それとも性質なのかはわからない。

 「傷だらけで戻ります」
 「泥だらけにしておきなさい」
 「将軍がお許しになられたら」
 「仕方のない」
 「いってまいります、甄姫様」
 「いっておいでなさい、公主」

 馬腹を蹴り、慣れた手つきでは馬を駆けさせた。まったく、馬上が似合う公主だ。いや、まったくの公子か。兵達だけでなく将軍達も面白がって小公子(おぼっちゃま)というのもよくわかる。
 甄姫は息を吐いた。こちらもいくさの支度をしようか。戦場の自分を見ては驚くかもしれない――なにせちょっと気の強いお姉さんとしかは考えていないようだからだ。あの子の驚く顔は始めてかしら、何度目かしら、とほほえみながら甄姫は奥へ戻る。







 初陣は華々しい活躍をと考えていないことは、脇を固める人間にとっては喜ばしいことだ。しかし活躍に無頓着であっても困る。主人である曹操の期待に応えられないからだ。どうにかして危険に晒すことなく手柄を上げさせなくてはならない。実に、悩ましいことだ。
 当のはそれを知っているのか知らないのか、群れにどう馴染むか思案顔のままだ。時折、小声で呟き、曹操から与えられた馬の首を叩いた。馬は、走りたがっている。

 「将軍」
 「なんでしょう、公主」
 「やはり、私は戟は無理だ」
 「公主は弓でよろしいのです」
 「うん。でも、それでは駄目だろう」
 「どのように」
 「統率が取れない。美しくもない。それはこの騎馬隊にあってはならないだろう」

 張遼はを見る。は至極真面目な顔をしていた。

 「伝わっているかな?」
 「感覚的に捉えていらっしゃる」
 「感覚ですまない」

 微苦笑を浮かべ、馬の鬣を撫でる。
 は短く息を吐き、再び、すまない、と言う。

 「私は戦争のことなんて何も知らない。だから、こうせよとの下知があればそれに従うだけです。悪いところがあるのならば修正し、家風……じゃないか、気風に合わせるのが義務です。将軍、ここではあなたが規律だ。だから、私はあなたを煩わせたくない。私も、規律を乱すことは嫌いだからね」
 「よき心得です、公主。確かに我が隊は戟もしくは槍を主に振るいます。調練にあっても戟か槍を前提にしてのもの、公主が同じ調練をしても得るものはやや異なるものと思います」
 「すまない。それでも短戟すら扱う気になれないんだ。重くて」
 「それでよろしいのです。そうでなくては我らが駆ける甲斐がない」
 「そう?」
 「そうですとも」

 男だね、とは言った。
 女だな、と張遼は思った。

 「どちらかというと、私は卑怯なことが好きなんだ」
 「公主」
 「この前、それをやってみせたら蛮族の真似は止せといわれた」
 「聞いております。夏侯淵将軍が嘆いておりましたな」
 「うん。卑怯なんだってね。弱々しく見えるともいわれた。将軍もそう思いますか」
 「あまり、好ましくないと」
 「そう。それなら命令してくれるかな。あれはやるなと」
 「私でよろしいのか」
 「あなたが今の私のすべてだ」

 ――本当に、おのれを女だと解っているのか。
 張遼は馬上のを見る。相変わらずの涼やかな公子振りだ。麾下の者でも、未だに公子だと思っている者は数多い。

 「公主」
 「はい」
 「あなたの誇りを汚さぬために、あのような真似は決してなさらぬよう」
 「承った」
 「戯れにもなさらぬとお誓いくださるか」
 「……それも?」
 「それもです」
 「困ったな。キマれば格好いいと思って練習してたんだけど」
 「なりません」
 「そうか。ならばもうしない」

 あっさりとは頷く。

 「あなたに武器は取らせはしません。必ずや、我らがお守りいたします」
 「……なるほど、私はやはり公主なのか」
 「は。曹公主でいらっしゃいます」
 「ならばここで威張らなくてはならないか。――張遼、頼むぞ?」

 珍しく、は声を上げて笑った。案外、高い声だと張遼は考えた。
 守らねばならないのは、義務だ。命じられたからするだけだ。公主もそのようにしろと言う。彼女は不思議なほど張遼に対して信頼を寄せている。そうせよと曹操から命じられたからだろうと容易に想像できるが、それだけではないように思えた。それは、が命令されることに慣れている様子があるからだ。そして同じだけ、命令することにも慣れている。
 自分と同じような人間なのかもしれないと張遼はを眺める。変わらぬ凛々しい顔をして、流れる馬群を観察していた。

 「公主、参りましょう」

 促すとは最小限の動きで馬に意志を伝える。そのやり方をは教えられずとも、知っていた。馬がどんな生き物であるのかもだ。
 遠きところから来たと聞いている。それは西涼なのか、北方なのか。女の身の上でこれほどまでに扱うことができるという大地には何があるのだろう――張遼は考え、そして口を結ぶ。下世話な詮索などしてなんになろうか。そういう対象に、見てはならないというのに。

 「将軍! 先を行くぞ!」

 駆けるために生まれた女なのだろうと、張遼は思う。己が武を恃みに生きていることと同じように、矜持を保ち、汚れぬように生きる人間なのだろうと思う。
 そして、そのような不器用な人間を、恐らく、張遼は好ましく思うのだ。人間は同類に対しこのように容易く好意を覚える生き物だと、張遼は人との出会いと別れを瞬く間に終えていく戦の世で学んでいた。

 「公主!」

 呼ぶと、が振り向く。
 特に美しいわけでもなく、色香がのぞくわけでもない。ただ、駆ける公主はこの上なく完璧であると張遼の目には見えた。
 少女というよりは少年の、少年のというよりは幼顔の青年のようなの姿を、張遼はやはり完璧な姿だ、と思う。それはかつての主と同じ種類のもののような気がしてならなかった。武器を持たぬだけ、の姿はひどく目に痛く、そして爽快である。
 張遼が何も言わぬことを不思議がっているようではあったが、はすぐに正面に向きを直す。細く、たおやかというには肉の足らぬ背が、早く来い、と張遼に命じていた。
 馬腹を蹴ってそれに応える。馬上にて完璧に足る娘は、あのひとと同じようにからかう目をして、ちらりと張遼を見、

 「それで私に何が言いたいのだ、張遼」

 と、言うのだった。










執筆者 : aoi 様

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