お前に向く視線
しばらく大きな争いもなく、平和と言えば平和だ。だがそれは武官によっては暇を持て余すだけの日々。鍛錬を怠る兵士には、いつも以上に溜まった鬱憤を晴らすように手合わせをする。
だがそれは武官の話。文官には関係が無いとは言い切れないが、暇では決して無い。
いつも以上に忙しくなった者もいる。そして、多くの仕事から逃げた者も。
「そしてここにももう一人、か。何をしておる」
「え、司馬懿さん? うわーサボり?」
修練所が見える小さな空間。彼女の自室から少し離れた小さな縁側、修練所からはそれなりに遠いが、様子はよく解かる。風通しのいい日陰の、庭とも呼べるその空間で、戦う者達を見ながら、いつもつまらなさそうに座っている。
今日は酒やつまみまで持ってきて。用意周到に、2人分。
「馬鹿めが。お前のような者を探しに来たのだ」
「にしちゃあ、今日はいつになく穏やかな。なんかあった?」
「逆だ。何もなさ過ぎる。良い事かも知れぬがな」
「そうかもね。でもつまんないや」
横にずれて柱にもたれて、私の方に盃を差し出した。
彼女の左、空いた場所に腰を下ろして、受け取る。飲み干せば、また注ぎだした。
真昼の陽が、ここには当たらない。
「日々の楽しみってのが無くなった気がする」
「貴様が楽しみに思うことなど元々ないだろう」
「んー、そういやそうだね」
「いつもここで暇を持て余して。何を考えておる」
いつのまにか愚痴を零す。2人分のつまみはほとんど手をつけない内に消えていく。
パクパクと、本当に噛んでいるのかと疑いたくなるような速さで口に放り込んでいるのが視界に入って、今度はため息が出た。
今回のつまみも彼女のお手製らしい。食べようと手を伸ばせば、取る前に最後の一個が彼女の口の中に。
「………おい」
「だってやーだ。今回は不出来だもん」
「なら何故出す」
「んー。乙女心?」
「解からんな」
また、ため息。
何が言いたいのかわからないが、こういう場合はからかって遊ぼうとしているだけだ。
修練所からの掛け声だけが、辺りに聞こえているのみ。やわらかな日差しが辺りを照らしているのがわかる。日除けの付けられたここは、程よく涼しい。今日は雲も、風も無い。
静かだ。耳が痛むほどに。
「仕事には戻らなくて良いのか、」
「良いわけないってのは司馬懿さんがよく知ってる事でしょ」
「わかってるんなら行け。私の仕事ばかり増やしおって」
弟子の尻拭いはせねばならぬ。面倒な者を弟子に持ってしまった。
後悔なぞしても意味は無い。今更恩を着せても何も言わないだろう。こいつは、そういう奴だ。
初めはただ私の下で働いていただけだった。それが、才を見込まれて弟子として軍師になるべく学んでいる。
ただ、今も前の仕事はしているのだが。始めてもすぐにこんな調子で
「一応、最近はがんばってるじゃんか」
「3日も経っていない」
「う〜。苦手なんだよねー、ああいう辛気臭いの」
「仕事だろうが」
「苦手なもんは苦手。こればっかりは性分だから」
気の抜けるような笑い方をして、私を見る。
風も無い今は、動かなければ涼しいが、肌にじっとりと纏わりつくような熱気は健在。今日は特に日差しが強い。
「昼の、さ。こんな雲も無い日が好きなんだ」
「知っている」
「うん。陽と影がくっきり分かれてるのが好きなの」
こんな晴れた日はよく空を見上げていたのを知っている。空を見上げたまま、柱にぶつかっていたのも記憶に新しい。後で、落とした竹管を届けてやったこともある。
陽と影のくっきりとした違いを好んで、影の中に陽を見ている。いつしか空を見上げるうちに、少しは天候や星が読めるようにもなったという。それほどに、空に想いがある。
「雲1つないようなのは、空が壁になったみたいでしょ?」
「さあな。私にはわからん」
「星を読める人が、よくそんな事言える」
呆れたような口調。そこに笑いが少し混じって、楽しそうな様子だと声からわかる。
つまらなさそうな、さっきまでの様子が嘘の様に。
「ホントはね、雲が少しあるくらいがいいの。夕方も綺麗だしね」
「橙に染まるのがか」
「さっすが、よくわかってる」
「はぁ……いつから―――」
いつからお前を見ていると思ってる。言いかけて、やめる。
「いつからお前の上司をしていると思う」
「あはは、大分前からだね。小言聞かされて、嫌だなーって思ってた」
「ふん。お前が悪いのだろうが」
むー、と頬を膨らます。何か言おうとして、何も言えなくなったのか口を噤んだ。
そんな動作ももう見慣れてしまっていて。
「何笑ってるのさ」
「ふっ、相変わらずだなと思ってな」
「なにが。毎日会ってるでしょ」
「ここでこうやって話すのは5日ぶりだ」
毎日会ってはいるが、皆もいる所で本音を話す事など無い。話したとしても、仕事に関する事で、会話とはいえない。
こうして―――そう、ここで本音を言って―――話し合うことはほとんど無かった。ずっと仕事をしていたからだ。それ以前に、ここで話をするのは数日に1回の間隔だったが。
「最初はサボってた所を見つかったんだよねー。絶対怒られると思ってた」
「怒れるか。あんなに武を知っている者を」
「ここで皆見てたらさー、皆のクセとかまで憶えちゃったもんね」
その知識が役に立った。何処にどのような者が居るのか、どんな事をしてくるのか。それが、才を見込まれたきっかけ。
戦時の予想を立て、軍師としての仕事の手伝いをする。初めはろくに信じなかった者達も、その勘と知識を信じるようになった。
もちろん、案をまとめるのは私だが。
「ちょっと、陽が傾いてきたね」
陽の光が横にそれて、影が少し長くなっている。だが、夕暮れには程遠い。
「司馬懿さん、仕事あるんじゃないの?」
「とっくに終わらしてきたわ、お前と違ってな」
「私も、終わらしたいんだけど。どうすれば終わるかな」
「仕事をしろ」
それは嫌なのか、また酒を口に運ぶ。そっぽを向いて足をプラプラと子供のように揺らした。その様子が本当に不貞腐れた子供の様で、微笑ましい。
今まで見たことは無い。こんなに子供らしく過ごすのを。
「あ、今夏侯惇将軍が手合わせ中。………張コウさんだよ、アレ」
それを見て顔をしかめる。そういえば苦手だった、なぜか。いや、よくわかるが。
「…負けろ、負けろ、負けろ張コウ将軍。負けろ…石投げてやる」
「そこまでするか」
「だって、夏侯惇将軍好きだもん」
「……そうか」
といって手ごろな石を探し始める。向こうは見えるが、結構な距離がある。届くはずもないのに。
夏候惇将軍のことを気に入っていることは知っている。それが恋愛感情ではない事も。向こうも妹や娘の様に思っていることを知っている。仲が良い親子のようだと、お互いに思っているだけだ。
「あ! ちょっと見てほら司馬懿さん! 惇兄さんが押してる!」
「ここからでは見えんぞ」
「じゃ、こっち! ほら。」
ぐい、っと引っ張られて、少し傍に寄る。右腕にしがみ付いて、ほら、と前を指差すが。
夏侯惇将軍も、張コウ将軍よりも
の綺麗な笑顔に、目が行った。
「やった、勝った! 勝ったね惇兄さんさっすがー!」
「良かったな。はいはいわかった、わかったから放さないか」
「あ、ごめん」
あっさりと放されて、少し寂しい様な錯覚まで覚えて。
「まったく…」
「あははは、なんか熱入っちゃってね」
何故そこまで熱くなれるのかがわからない。
いつのまにか、夏侯惇将軍、から惇兄さんに呼び名が変わっている。
「そろそろ行くぞ」
「はいはい。お勤めごくろーサマ」
「お前も働かんか」
また、不貞腐れた様な顔をして。
「明日もここに居たら容赦せんぞ、馬鹿めが」
言ったら、じゃあと返してきた。
「明日から仕事するよ」
「当たり前だ」
分かれた後も余韻を残す。
「あ、仲達先生」
思い出したかのように、師である私を先生と呼ぶ
「明日は仕事じゃなくて、手伝いに行くから」
そういうお前に、いつしか視線は――
執筆者 : 灰色(元・神無月の絵空事。)様
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