「今日はこのくらいで宜しいですぞ、殿。あとは殿に目を通していただければ終わりです」
司馬懿が書簡を纏めている。
が司馬懿の手伝いをするようになってから、その処理の早さは目を見張るほどで並の文官以上の働きをこなす。
曹操の手伝いで自分が出来る事をしたい、との申し出に当初過保護な父や兄は反対もしたのだが、は頑として譲らず文官として司馬懿の補佐をするようになった。
但し、曹操の書簡の手伝いと見張りも兼ねる事になった。そうしなければ書簡を放っての様子を見に司馬懿の所まで行きそうだったからだ。
司馬懿が処理した書簡を曹操の元へ届け、そのままは曹操の手伝いもする。可愛い娘が傍に居るだけで曹操の逃亡率は激減した。
「…あら?」
突然、が声を上げた。
「如何しました」
司馬懿が見ていた書簡から顔を上げる。
「父上の書簡の中に…これは…張遼様宛の書簡ですよね?」
どうやら紛れでもしたのだろう。司馬懿は他の文官に届けさせようとしたが、は自分で届けると言った。
「父上の執務室への途中に張遼様のお部屋も御座いますから、ついでに届けておきますね」
「…そうですか…では、お気をつけるのですぞ」
「…え?」
何のことか分からず、ぽかんとした表情のだが、司馬懿がそれ以上何も言わなかったので、聞き違いでもしたのだろうと気にしないことにした。
何本かの書簡を抱え、廊下を歩く。今日は天気もよく、城内を通る風も心地よい。風に揺れる髪は光を受けると金茶に輝く。側室の一人であった母親譲りの髪と瞳は珍しさもあって人目を引く。甄姫と張コウに飾り立てられたりと、二人の絶好の玩具と化す時もあった。
普段のは柔らかく波打つ髪を結い簪を挿している。後れ毛を風に靡かせながらは張遼の部屋へと向かった。
「で御座います。張遼様はおられますか?」
戸口で声を掛けると中から幾分慌てたような気配が近付き、張遼が扉を開けた。
「…殿?何故貴女が?」
時折、城内で見かける事はあっても常にと言っていいほどの傍には護衛よろしく誰かが付いている。父である曹操、兄の曹丕、夏侯惇や夏侯淵、曹仁に時には甄姫までが。
そんなが一人で自分の執務室を訪れるなど予想外の事態に流石の張遼も驚きを隠せない。
「実は、父上の書簡の中に張遼様宛の書簡が紛れておりまして…これから父上の執務室に向かう所でしたので、私が直接お届けした方が早かったものですから」
髪と同じ金茶の瞳を細め、ふわりと微笑む。
「それは忝い、殿。お礼といってはなんですが、丁度茶菓子を頂まして…宜しければご一緒にいかがですかな?」
「宜しいのですか?」
「構いませんよ。一人で食べるより、貴女のように麗しい御方と食したほうが格別に美味でしょう」
「張遼様は冗談を仰るのが上手ですのね」
くすくすと笑うに冗談ではないのだが、と張遼は思った。二喬にも劣らぬと曹操が言うほどに可憐な姫君は大切にされ過ぎて、その手の言葉には疎いらしい。
張遼への書簡を渡したは椅子を勧められ、張遼が菓子を持ってくるまで初めて訪れた室内を珍しそうに眺めていた。
「何か、珍しいものでも御座いましたかな?」
張遼が微笑みながら問いかけると、幾分は顔を赤らめる。
「すみません…父上やおじ上以外の殿方の部屋というのが初めてでしたので…つい…」
その言葉に過保護な護衛たちの顔が浮かぶ。執務室とはいえ、彼女と自分が二人きりだと知ったら血相を変えて飛び込んでくるだろう。
「本当に…殿は皆に大切にされておられるのですな」
その言葉には顔を上げる。
「ええ、父上や兄上、おじ上達には本当に感謝しております」
側室とはいえ後ろ盾のないの母親がこの世を去ったとき、自分の身の行く末として何処かの豪族にでも嫁がされるのが関の山だろう、と覚悟も決めた。
しかし、娘とはいえ器量も性格も、果ては知力にも優れた娘を曹操は手放す事無くそのまま傍に置いた。その恩に報いたいと自分でも出来る事…武官は無理だが文官の補佐という仕事を担う事にした。何もせずに後宮で過ごす毎日など、には耐えられなかった。
「司馬懿殿の補佐はいかがなものですか?」
「あの御方は口調がきついから誤解されている方も多いのですが、ちゃんとお優しい所もお有りですよ。この前だって…」
の言葉を聞きながら張遼はその優しさはが相手だからこそ、という事に気付いていた。君主の娘という事を差し引いても有能なの事を司馬懿が悪く思うはずが無い。
(本当に…)
張遼は思った。
(本当に…この姫君は皆に大切にされておられるのだ)
穏やかに、心地よく耳に響く声。柔らかい物腰、見る者の心を捉える風貌…の自覚が無いからか、それらは周りを暖かく潤す。一般の兵士や文官までも手の届かぬ高嶺の華である彼女に淡い想いを抱くのも無理は無い。しかし、その想いは保護者達の鋭い眼光で跡形もなく霧散する。
少々世間知らずな所も女官達には受けがいい。特に曹操や曹丕、夏侯惇らの意外な姿を見られるのも絡みとあっては彼女らにとっては尚更楽しいらしい。
「…張遼様?」
呼ばれて我に返ればが自分を覗き込むように見ていた。
「すみません…私、つい話し過ぎてしまいました」
「お気になさるな、殿。滅多に聞けない話、なかなか楽しいものですぞ」
その言葉にほっとしたようにが微笑んだ。
「そろそろ殿の元へ行かれては?つい、引き止めてしまいましたが…」
「そうですね、それでは張遼様、お菓子、とても美味しかったです。ご馳走様でした」
立ち上がり、深く礼をしたの髪からするりと髪飾りが外れた。それは床で跳ね、張遼の足元近くに落ちた。
「落し物ですよ、殿」
恭しく髪飾りを手に取るとへ差し出す。
「申し訳ありません…張遼様」
そのまま手渡そうとした張遼だったが、ふと思いついたように口を開く。
「では、私が挿して進ぜましょう、殿」
「…え?で、でも…張遼様のお手を煩わせる訳には…」
顔を赤らめながらが言っても張遼は気にしない。
「此の位、煩わしさのうちには入りませんぞ」
そう言われてしまうとは何も言い返せない。
「で…では…その…お願い致します」
恥ずかしそうに俯く彼女に近寄り、髪飾りを元の位置に挿す。彼女が好んで使っている梅の香が張遼の鼻を擽る。手に触れる髪は予想通り柔らかく、窓からの光で淡く輝いている。指先に伝わる感触は心地よく、いつまでも触れていたくなる。
不意にその首筋に指先で触れる。
「…ひぅ!」
驚きと擽ったい感触には肩を竦めた。
「申し訳ありません、殿…(つい)手が滑りました」
両手で庇うように首を押さえ、真っ赤になっているに張遼は涼しい顔で答える。
「い、いえ…私も…その…驚いただけです…」
おそらく、世話役の女官しか触れた事がないのだろう。不意とはいえ、身内の男でも易々と手を伸ばし触れるような場所でもない。
(本当に、無垢な御方だ)
再び口を開こうとした張遼の言葉を遮るように執務室の扉を誰かが叩いた。
「張遼、すまぬが此処にが来ておらぬか?」
の護衛の筆頭、夏侯惇の声だ。
「夏侯惇殿か、殿は此処に居られる。どうぞ入られよ」
慌てる様子を隠すでもなく、勢い良く扉が開かれた。
夏侯惇は一瞬固まった。首を押さえて頬に赤味を残していると、対照的に普段どおりの涼しい顔をした張遼…何が起こっていたのか分からないが、鋭い視線を張遼へと送る。
(に何かしたのではあるまいな?)
(滅相も無い)
視線だけで牽制し合うと夏侯惇はに向かった。
「が遅いと孟徳が騒ぎ出した。早く行かねば、自分が探すと言い出して逃げ出すかもしれん。お前は先に行っていろ、」
「は…はい、おじ上。張遼様、お菓子、ご馳走様でした。このお礼は何れ…それでは失礼致します」
が立ち去った張遼の執務室では…
「本当に、何もしてはおらぬのだな」
「殿が落とした髪飾りを髪に戻しただけです。それ以上は何もしておりませぬ」
「偽りは無いな」
「身命に誓って」
胸に手をあて張遼が言い切れば夏侯惇も何も言えない。
「では…今日の所はこの位にしておくが…くれぐれもに滅多な事をするなよ、張遼」
「そのような真似をしたら命がいくつあっても足りませぬよ」
苦笑する張遼に、更に念を押し夏侯惇は曹操の執務室へ向かった。
一人残された張遼はの首筋に触れた指先を見つめた。白く滑らかな首筋。その柔らかい感触は指先に残っていた。唇とその指先を軽く触れさせる。
「何も…してはおりませぬよ…今の所は、ですがね」
汚れを知らぬ無垢な姫君…過保護な護衛達を思えば頭が痛いが、それらを乗り越えこそ手に入る可憐な華。あの笑顔が自分だけに向けられるのも悪くない。
張遼は口元を緩めるとの届けてくれた書簡に手を伸ばした。
― 劇終 ―
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