〜 シリーズ最終章 〜





「元譲…」
「何だ、孟徳」
執務室で書簡に目を通していた曹操に夏侯惇は渋い顔を見せた。
もしや、山のように積まれた書簡に飽きて今日はもう止めたと言い出すのではないかと思ったからだ。
だが、曹操にしては珍しく(?)黙々と書簡を片付けていて、その気配はない。
夏侯惇の訝しげな視線を受けながら曹操はふと、筆を止めた。
「最近のの様子だ」
「……の?」
「元が良いから当然だが…最近更に美しくなりおった」
夏侯惇はそう言われて最近のの様子を思い、そう言われてみれば…と曹操を見た。


今日も司馬懿の執務室からは曹操の執務室へと向かう。その道程の途中には鍛錬場がある。
自然に早足になり、嬉しさがこみ上げてくる。時間が合えば張遼に会えるからだ。

「今日はここまで!」
威厳のある声が聞こえてきた。
…間に合った。
書簡を抱えながら廊下から鍛錬場を覗き込むと鉤鎌刀を手にした張遼の姿があった。
兵達を解散させると張遼は自然にの傍までやってくる。
鍛錬を終えた張遼が少しだけと話を交わすのは、ほぼ日課となっていた。
「これから、殿の執務室ですか」
「はい、張遼様」
柔らかく笑みを浮かべると陽の光を浴びた髪は金茶の輝きを見せた。張遼はその様子を眩しげに目を細め、口元を綻ばせる。
「張遼様はこれからどうなさるのですか?」
「そうですな…天気も良いので遠乗りでもしようかと」
「素敵ですね…私もご一緒したいです」
「それには…殿や夏侯惇殿のお許しが必要ですな…」
「そうですね…いつか張遼様とご一緒したいです」
と張遼は、小さく溜息をついて苦笑した。
「父上、です」
中から入れ、と声がかかり、は扉を開け、曹操の執務室の中へと歩みを進めた。
いつものように山のような書簡の中で曹操は筆を走らせていた。
「司馬懿様からの書簡です。あとは父上に目を通していただくだけです」
卓の空いている箇所に書簡を置き、いつもの様には曹操の手伝いを始めた。

窓からの光での髪が金茶に輝いているのを曹操はしばらく見ていた。
側室であった母親譲りの髪と瞳。周りの者を気遣う立振る舞い…は城の皆から慕われている、と曹操自身も解していた。
しかし、娘可愛さの親馬鹿もあり、近付く者には目を光らせていた。
司馬懿の補佐、という文官の仕事の傍ら曹操の手伝いもする。その才知も曹操にとっては充分な親馬鹿材料であった。
夏侯惇を筆頭に夏侯淵、曹仁、曹丕らも同じ様に目を配っている。

「父上?」
随分と長い時間見ていたのだろう。は不思議そうに曹操の顔を覗きこんでいる。
「私の顔に…何か…も、もしや墨でもついておりましたか?」
慌てて両頬を押さえる。それに気付かず張遼と話していたから尚の事恥ずかしい。
「いや、そうではない。安ずるな
「そうですか…良かった…」
は桃花のように染め、安心したように息を吐いた。
「なんだ、墨を付けた顔を見られたくない相手とでも会ったのか?」
「……父…上?」
頬に一段と赤味を増したを見て、自分の勘が当たったのを悟る。
流石に曹操に隠し事など無意味だった。
「その相手とは…誰なのだ?」
曹操はからかう様な笑顔の下でを見ている。
しかし、はまるで戦場にいるような窮地に陥っていた。

「張遼様」
呼ばれて振り返れば曹操付きの女官だった。
「殿がお呼びでございます」
嫌な予感が張遼の全身を駆け巡った。

曹操の執務室の扉の前では夏侯惇が腕組みをして待っていた。言い訳も隠し事も何も許さない鋭い眼光のまま、張遼を睨みつけると声を潜める。
「中に孟徳とがいる。しばらくは此処で中の様子をうかがっていろ」
張遼はその言葉に従い、息を潜め扉に近付いた。

「その者は文官か?」
「…ち…違い…ます」
「ならば武官か…」
卓の上には書簡があるが既にその存在すら忘れられていた。
顎鬚をなぞりながら曹操は天井を見上げた。おそらく今日の執務は捗らないだろう。
はこれまで感じたことの無い程の緊張感に包まれていた。張遼の名を出せば、その身の安全は保障されない様な気がしたからだ。
「…そう固くなるな、。その者とは…張遼…そうであろう?」
全くの不意打ちには顔を上げ、何故分かったのかという表情で曹操を見ていた。
「儂の勘も満更ではないな」
くっと余裕の表情で笑った曹操とは正反対には赤くなりながらも問いかけた。
「何故…」
「この曹孟徳を甘く見るでない」
子供のように愉快そうに、曹操は口元を上げた。
「…本気…か?」
「え…」
「お前の気持ちだ」
真っ赤なまま、はこくん、と頷いた。
「そうか本気か…それではお主はどうなのだ、張遼!」
扉に向かって曹操が声を掛ける。が驚いていると夏侯惇が扉を開け、張遼と共に入ってきた。は思わず曹操へと振り返る。
「今の話は聞いていたであろう?のお主に対する気持ちを…お主はどうなのだ」
に向けていた視線とは逆に鋭く、張遼へと向ける。
「私の…殿へのお気持ちですか」
「そうだ、他に何がある」
観念するしかない状況に張遼は小さく息を調え、曹操へと真直ぐに視線を向けた。
「私は…一介の将の身でありますが殿のご息女、殿をお慕いしております」
「戯れなどではないであろうな」
「この命に誓って嘘偽りは申しません」
「では、守り抜け」
「は…?」
が悲しまぬよう、苦しまぬよう、その全身全霊を持って守り抜け」
「はっ」
「と、いう訳だ。お主、今日はもう仕事にならんだろう。二人とも下がってよいぞ」
曹操はにやりと笑い二人を下がらせると自分の書簡の続きを始めた。

「…随分アッサリと下がらせたが…良いのか?孟徳」
「良いわけなかろう。それに儂は許したとは申しておらぬ。に悲しい思いをさせたならば、容赦はせん」
「それに関しては俺も同意見だな」
執務室では曹操と夏侯惇が物騒な意見を一致させていた。

廊下を進む二人は無言だった。
曹操と夏侯惇の目の前で、互いの気持ちやらを暴露されてしまったのだから無理も無い…張遼の袖をは引きとめるように掴んだ。
「張遼様…申し訳ありません…私が…私がもっとしっかりしていれば」
殿…」
自分の不甲斐なさから涙が溢れた。自分が気を付けていれば、気付かれずにいられたかもしれないからだ。張遼の袖を握りながらの頬を涙がつたう。
「気に病まないでくだされ、殿。いずれは私の方から殿へお伝えしなければならなかった事…どうかご自分を責めないでください」
そう言うと張遼はを抱き締めた。
「泣かないでくだされ…殿…誰も悪くなどないのですから」
「でも…」
「それに…この状態を見られれば私の命運が尽きてしまいます」
曹操は『悲しませるな、苦しませるな』と言った。が自分を責めて涙を流していたとしても、張遼の言葉は冗談にならない。
張遼はの両頬を優しく覆うとゆっくりと上向かせた。
「私…張文遠は貴女を愛しております…殿」
涙で濡れた瞳が大きく見開かれ、顔を赤く染める。
「張遼様…私も…貴方を…お慕いしております」
やっと表情を和らげたに張遼は微笑み、涙で濡れた瞳を優しく拭う。その暖かい仕草に委ねるようにが瞳を閉じると張遼はへゆっくりと唇を重ね合わせた。
緩やかな風が二人を包みながら流れて行った。

曹操は簡単にを手放さないだろう。これからの事を思えば頭痛もしてきそうだ。しかし、張遼にとってはかけがえの無い大切な一輪の花。
このたおやかな花をゆっくりと、大切に守っていこう。
張遼は腕の中にある愛しい存在に誓う。
金茶に輝くの髪には張遼から初めて贈られた簪が小さな音を立て、揺れていた。






― 劇終 ―




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