最近の自分が分からない…は誰にも言えない漠然とした悩みを抱えていた。
いままでなら…何の支障もなく視線を合わせて話もできたのに…
は自室で空を眺め、流されていく雲を見て小さな溜息をついた。
「」
ふと、声をかけられ視線を移せば曹丕の姿があった。
「兄上…」
いつもより元気の無いを心配して、部屋を訪れた曹丕は傍まで来るとと同じように空を見上げた。
「何があった」
曹丕は視線を空に向けたまま、手短に、しかも的確にに尋ねた。
「…兄上?」
「父や皆がお前に元気が無いと気にしている」
その言葉には俯いた。自分の変化に皆が気付く程、心配させてしまったと心にちくりと棘が刺さった。
曹操の側室の娘の。今は亡き母譲りの髪と瞳。陽にあたると金茶の輝きが知らず知らずのうちに見ている者の心を癒す。それをいたく気に入っている曹操は超が付くほど溺愛し、近付く輩に目を光らせている。
は穏やかで、おっとりとした性分からか分け隔てなく他人に接する為、城の皆から慕われていると言っても過言ではない。
そのがここ数日、元気が無いと城内で囁かれていた。
「…私…何か変なのです…」
呟くように小さな声では口を開いた。曹丕は黙っての言葉に耳を傾けた。
「…何だか…苦しいのです…」
そっと自分の胸に手を当てる。
「兄上…私…何かよからぬ病にかかってしまったのでしょうか…」
曹丕を不安げに見上げる。曹丕は表面上はいつも通りの仏頂面だったが、のあまりの自覚の無さに口の端を少し緩めた。
「なる程…それは厄介な病だ」
その言葉には青褪めた…が、続いて出てきた言葉に耳を疑った。
「甄に聞いてみるがいい…」
「義姉上…に?」
は首を傾げた。直ぐにでも典医の所へ行けと言われるかと思ったからだ。
「…その類いは典医より甄の方が詳しいだろう」
優しく頭を撫で、曹丕は部屋を後にした。相変わらずの仏頂面だったが、に向けられている時だけは、その視線はいつもより幾分柔らかかった。
曹丕の助言通り、は甄姫の部屋を訪れた。
「まあ、。どうなさったの?」
の突然の訪問に少し驚いたものの、甄姫は快くを迎え入れた。
甄姫もまた、の心配をしていた一人である。
「義姉上…実は…」
ぎゅっと握りしめた手に何かを察したのか、甄姫は女官達を下がらせた。が話し易い様に、椅子に座らせる。
「最近、元気が無いとわが君も私も心配しておりましたのよ」
優しくに語りかける。その言葉がの体にゆっくりと染み渡っていった。
「はい…先程…兄上に打ち明けたら…義姉上に聞いたほうが良い、と…」
「私に?」
は曹丕に言った言葉をそのまま甄姫に打ち明けた。
「義姉上…私…私…どうしたらいいのか…」
俯いたままのの手は微かに震えていた。自分で自分が分からなくなりそうで、は甄姫の言葉を待った。
「」
弾かれたように顔を上げると其処には甄姫の艶やかな微笑みがあった。
「違っていたら御免なさいね…胸が苦しくなる時って…もしかして…ある方の事を考えたり、その方のお姿を目にした時ではなくて?」
何処と無く嬉しそうに微笑む甄姫の言葉には自分の記憶を遡る。
しばしの沈黙の後、の頬が染まったのを見て甄姫は更に笑みに深みを増した。
「それは病といっても典医では治せませんわ、。それはね…貴女がその殿方に想いを寄せてしまったからなのよ…」
甄姫の言葉を反芻するように考えていたはその意味を悟ると耳まで真っ赤になった。
そんなを甄姫は嬉しそうに眺めていた。
「それで、貴女の心を虜にした殿方はどんな御方なのかしら」
顔を真っ赤にしたまま、頬の赤味を両手で隠すようにしているに問いかけた。
しかし、たった今辿り着いた答えには甄姫の問いすら耳に入っていないようだ。
少し落ち着いてきた頃合を見計らってに甄姫は話を続けた。
「この話、わが君と私の他に知っている方はいらっしゃるの?」
「…い、いいえ…他の誰にも…」
「そう、良かったわ。暫くは私達だけの秘密にしておきましょうね」
「何故ですか?義姉上」
「この事が公になれば貴女の父君が黙っておられる筈がありませんもの」
甄姫は指先を口元に寄せ、ふふ、と微笑んだ。
に対する曹操の溺愛振りからすると絶対に何かしら騒動が勃発するだろう。
「、貴女が慕うほどの殿方ですもの…良い方だと信じておりますわ。でも…貴女を悲しませる事があったら…その時は私も容赦は致しませんわよ」
「義姉上…」
「皆が貴女を大切に思っているわ、。困った時にはいつでも私の所へいらっしゃい。女同士でなければ出来ない話もありますでしょう?」
「義姉上…有難う御座います」
の目から涙が零れた。
ずっと悩んでいた事の答え、皆を心配させてしまった至らなさ、様々な感情が涙と共に流れていくようだった。そんなの涙を甄姫は優しく拭いて包み込むように抱き締めた。
答えを自覚したからか、翌日からはいつも通りのに戻った。
城内を歩く姿も、見る者を癒す微笑みも穏やかな口調も全てが元通りだ。
唯一つ違うといえばの中に生まれた感情…どことなく嬉しくもあり、恥ずかしいような暖かい気持ちが自分の中に湧き上がってくるようだった。
自然とこぼれてくる笑みに司馬懿ですら何か良い事でもあったのか、と尋ねる程だった。
司馬懿の執務室から、書簡を届けに父・曹操の執務室へ向かう途中、部下の指導をしている将の姿が見えた。思わずは足を止め、しばしその情景を眺めていた。
視線に気が付いたのか、その将はへと視線を移した。
の胸の奥が大きく高鳴った。
鍛錬は終わりに差し掛かっていたのか「今日は此処まで」と切り上げるとへとその将は近付いた。
「殿、これから曹操殿の所へ?」
「は、はい…父上に確認してもらう書簡です」
胸の高鳴りを悟られないようには精一杯自然に振る舞っていた。
「ここの処、元気がないと思っておりましたが…」
「も、もう、大丈夫です。ご心配をお掛けいたしました」
「そうですか、それは良かった」
優しげに微笑む将へとも微笑みを返した。
その瞬間、合ってしまった視線には思わず俯いてしまった。
「殿?」
逸らされてしまった視線にその将はの様子を伺う。
自覚があるが故に、は視線を合わせ続けるのが辛かったのだ。
「な…何でもありません…あの…私…そろそろ父上の所に行かないと…」
「そうですな、以前の様に殿を探しに執務室を抜け出すかもしれませんな」
その時の大捕り物の様子を思い浮かべ二人同時に微笑んだ。
足早にその場を離れていくの姿に、やはりいつもとは何か違う様子を嗅ぎ取った将は腕を組んで考え込んだ。
…もしや自分は何か彼女の意にそぐわない事でもしでかしたのだろうか?
しかし、いくら考え込んでも答えは思いつかなかった。
「どうかなさいましたか、張遼殿」
徐晃に呼ばれた張遼が顔を上げた。
「いや…何でも有りませぬが…」
「もし、お時間がありましたら拙者と手合わせを願いたい」
「構いませぬよ」
二人が武器を合わせると鍛錬場に小さな金属音が響いた。
一方…は自覚してしまったが為か張遼の顔をまともに見る事が出来ずに書簡を抱き締めたまま、廊下の壁に寄りかかっていた。
張遼と城内で会えて嬉しかった、声をかけてもらえて嬉しかった。
だがどうしても張遼の顔を真正面で見る事が出来ない。
「…私…どうしたらいい…の?」
このままでは張遼に不快な思いをさせてしまう…
「でも…」
張遼の顔を思い出すだけで胸が高鳴り、頬が熱くなってくるのが分かった。
「私…こんなので…大丈夫…なのかしら…」
は小さく溜息を付くと、近いうちに再び甄姫に相談してみようかとも考えた。
何かが自分の中で変わっていく…それがにとって良い事か悪い事か…
「でも…このままでは…何も変わらない…のよね…きっと」
書簡を抱えなおしては歩き出した。
この想いを口に出して伝えられるかは分からない。
伝えたとしても張遼に既に別の想い人がいるかも知れない…それでも…一歩でも踏み出さなければこの状況は変わらない…
は空を見上げ、祈るように目を閉じた。
(せめて…お顔を見ながら話せるようにならなければ…)
ささやかな目標を胸に、は曹操の執務室へと向かったのだった。
― 劇終 ―
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