これはまだ…二人が互いへの想いを知らなかった頃の話…











さて、どうしたものか……


は天井を見ながら自分の置かれた状況を考えていた。
天井を見ているのは、仰向けであるから。仰向けなのは寝台に寝ているから。
寝台に寝ているというものの、それは自分のものではない。自分のではなく呂蒙の仮眠用の寝台。なぜ呂蒙の寝台に寝ているかというと、宴で酔い潰された呂蒙を運んで来たから。
運んで来た筈のが何故呂蒙の寝台で寝ている状況に至ったか…答えは顔のすぐ横で寝息を立てている呂蒙に他ならないのだが…は諦めにも似た溜息をついた。抜け出そうにも体をしっかりと抱き締められていて、ほとんど身動きをとることが出来ない。



意識が有るのか否か、足取りも怪しい呂蒙に肩を貸し、宴の席から彼の執務室、その奥にある仮眠用の寝台に辿り着くまで半ば引きずるように運んで来た。武将とはいえ、さすがのも大の男一人を運ぶとなるとかなりの体力を消耗した。寝台へと彼を寝かせ、肩に回していた呂蒙の腕を外そうとした…その時。
「……ふぇ?」
間抜けな声を出して我に返ったとき、は天井と向き合っていた。何事かと周りを見回せば寝台へと引きずり込まれ、呂蒙の両腕がの体を抱え込むようにしっかりと回されている。
「…りょ…りょ…りょ!…呂蒙殿っっ……?!」
自分の置かれた状況を理解したは裏声じみた声を上げ、耳まで真っ赤になりながら呂蒙の下で暴れだした。呂蒙の事が嫌いな訳ではないが、この状況はまずい。とにかくまずい。私にも心の準備が…ではなくて…誰かに…そう、誰かに見られたら…!

…」

不意に耳元で囁かれる。酒気を帯び、熱をもった呂蒙の吐息がの耳朶を掠った。いつも自分の名を呼ぶ時とは明らかに違う呂蒙の声。その一声だけで動きを封じられてしまったかのように動けなくなった。かすかに聞こえていたはずの宴の音楽や声も今のの耳には届かない。自分の心臓の鼓動だけが頭の中で響いている。声も出ない。名前を呼ばれただけなのに、ただそれだけの筈なのに…意識をしないと、呼吸すらまともに出来なくなりそうな熱が体の奥から這い上がってくる様な感覚には怯えた。目を瞑った位では逃れる事など出来る訳もないのに、はひたすら固く瞼を閉ざすしか出来なかった。
…しかし、瞼が痛くなる程の時間が過ぎても何も起こらない。恐る恐る目を開けたが目にしたのは先程と同じ執務室の天井。重く圧し掛かっている主の方に視線だけを動かして見てみれば……穏やかに寝息を立てる呂蒙の顔。それをしばし呆けて見つめていた。怒るべきか、泣くべきか、笑うべきか…は何をどうしていいのか分からず、歪んだ口元から安堵のような長い溜息を吐き出した。


どうしたらいいものか…


呂蒙は起きる気配がない。それもその筈、宴で出来上がった孫権、甘寧、黄蓋にまで絡まれていた呂蒙。あの三人に絡まれては次から次へと酒を注がれ、休む間はおろか、逃げる事すら不可能だ。潰した呂蒙を後にして三人は次なる犠牲者を求めて宴会場を移動する。酒に強くないはそんな三人から逃れるように、身を隠していた。酔い潰された呂蒙をそのままにしておけず、は呂蒙を部屋まで運ぶ事にした。手助けをしようと声を掛けた凌統に一人で大丈夫だから、部下達を頼む、と言って呂蒙の腕を自分の肩に回して立ち上がる。上官はおろか君主から酒を勧められて断るなど、兵卒の部下たちには出来る筈もないだろう。孫権は周泰が付いているからまだ良いとして、甘寧を止めるとなると副官の、もしくは凌統か陸遜くらいでなければ相手にならないであろう。明日の執務は休みだけれども程々にしてほしいものだ、とは大酒飲みの上官に対し溜息をついて呂蒙の部屋へと向かった。


天井を見つめ続けて、どの位の時間が経ったのか。宴の音楽はとうに止み、聞こえてくる声も疎らになりつつある。おそらく何人もが酔い潰されて宴会場に屍のように転がっているのであろう。様子を見に行った方がいいのだろうかと思ってはみるものの、呂蒙の腕は未だにしっかりとの体に回されて解けそうにない。諦めるしかないのだろうか…と考えるの瞼がだんだんと重くなってくる。呂蒙を運んだ事で消耗した体力と、その後の展開で疲れ果てた気力に、呂蒙の寝息に乗って流れてくる酒の香りと重なった身体から伝わる心地よい体温が緩やかにの意識を遠ざけていった。



瞼を通して微かな光を感じて呂蒙は目を覚ました。頭に鈍く残る痛みが昨夜の名残を知らせている。孫権らに酔い潰されたのを悟り、左の頬に当たる感触で誰かが寝台まで運んでくれたのだろうという所まで推測した。しかし、腕の中にあるその存在には想像が付かず呂蒙はそっと目を開けた。

(…………?!)

目の前に、向かい合うように、の寝顔。両目を見開き、酒の残る頭を懸命に働かせ、この状況を判断しようとするが、まったく記憶がないだけに頭の中を右往左往するばかりである。しかも、自分の左腕はの枕と化しその先の掌はの肩に、右腕をあろうことかの腰にしっかりと回している。明らかに自分が作り出したとしか思えない状態に呂蒙はますます混乱する。
僅かに動いた呂蒙にが抗議をするように小さく呻った。
(起こしてしまったか…?)
しかし、再び寝息を深くしていくに呂蒙は安堵する。普段からは考えられない程の無防備な寝顔に思わず笑みがこぼれる。閉じた瞼と長い睫からほんの少しだけ視線下に移すと微かに開いた唇から規則正しく聞こえる寝息。しばし、その唇に目を奪われるが我に返る。だが、皮肉にも逸らしたはずの視線は襟元から覗く自分よりは明らかに白く、柔らかそうな肌を捕らえてしまったのだ。その上、呂蒙の右腕は彼を更に翻弄するかのようにの温もりを伝えくる。細く柔らかいその感触は、が女性であることをこれでもかと訴えてくる。持てる理性を総動員させて呂蒙は己自信と戦う羽目になった。右腕を離せば楽になるのに、そこまで頭が回らない。少なからずの好意を持つ相手の体温を逃してしまうのが惜しいのか、右腕は微塵も動こうとしなかった。

陽が出てきたのか、窓からの光が強さを増してくる。その光にも目を覚ました。体を包む温もりが心地よいのか、しばらくまどろんだ後、目の前にあるものに視点を合わせる。霞んでいた視界が徐々に晴れてくると、そこにはなんとも表現し難い呂蒙の顔…


「……おはよう…ございます…呂蒙…殿…」
「あ…あぁ……おはよう……」

朝の挨拶を交わした直後に、二人は真っ赤な顔でほぼ同時に飛び起きた。

事の成り行きをから聞くと、呂蒙はますます狼狽した。酔った勢いで記憶に無いとはいえ、自分のした事である。気にしないでください、と言われても焼け石に水。激しい自己嫌悪に残った酒の相乗効果で頭が割れそうである。
そんな呂蒙を気遣っては典医から酔い覚ましの薬湯を貰ってきますね、と部屋を出て行った。寝台に腰掛け、拭いきれない罪悪感に呂蒙は頭を抱えた。普段隠している筈の感情がこんな形で出てしまうとは…かつては自分の部下である
配属された頃はまだ少女だったも今では武将の地位を得た女性へと成長した。凛としたその振る舞いは戦場では鋭く敵を薙ぎ、戦を離れると柔らかく周りを潤す。その成長ぶりを誰よりも近く、長く見てきた呂蒙。は武技だけでなく、学問も疎かにせず、呂蒙から数多くのことを学んでいった。が自分に向ける尊敬を込めた視線が嬉しい反面、もどかしくも感じ始めたのはいつの頃からか。を女性として見ている事に気付いたのは皮肉にも呂蒙が甘寧の副官に彼女を推挙した後。いつも隣にあった存在が別の場所へと移ってしまってからだった。

当初は女の副官と云う事も手伝って反感を隠そうとしなかった甘寧も次第にの武将としての気迫、力量を認め今では共に戦場を駆け、その背を預けている。
の幼馴染である凌統もに対しては素直に従う事も多い。時折甘寧と共に叱られ、正座をさせられている姿を見ることも多々あるが、それは置いておこう。
現在の呂蒙の部下である陸遜もまた、姉弟子ともいえるをいつも気にかけている。と甘寧が書簡の攻防戦を繰り広げれば彼女の援軍として駆け付ける。その度に甘寧の髪が焦げているのは呂蒙の気のせいではないだろう。
注意深く周りを気にしてみれば、を慕う輩のなんと多いことか…

頬杖をつき、考え込んでいるとが戻ってきた。薬湯と、それとは別に粥の入った器。
「何かお腹に入れた方が早く酔いが覚めますから」
卓の上に盆を置き、粥を勧めた。昔に戻ったような感覚に呂蒙は自然と笑みを返し、寝台から立ち上がった。卓へと近付くと粥の器が二つ…不思議に思い、顔をあげると、御一緒してもよろしいですかとが申し出る。断る理由など何処を探しても無いのは明白であった。
他愛も無い話をしながら粥と薬湯を腹に収め、呂蒙はひと息をついた。頭もかなりスッキリとし、に改めて礼を言うと彼女は頬をほんのりと染め、微笑んだ。戦場では見られない、の穏やかな笑顔。朝の光が彼女を包み、より一層その魅力を引き立てる。

思わず呂蒙は手を伸ばした。指先がその柔らかな頬に触れると、が驚いて目を丸くする。呂蒙は我に返り、直ぐに手を引いた。今、自分は何をしようとしたのか…
自分の手を見つめる呂蒙には声を掛ける。
「呂蒙殿の手、私は好きですよ」
驚いた呂蒙が顔を上げると、は呂蒙の手を見つめている。
「強さと厳しさを持っていて…ですが、とても暖かくて優しいのです…だからでしょうか。安心して、すっかり寝入ってしまいました」
小さく笑うと、は椅子から立ち上がった。
「お茶を入れてきましょうか」
器を下げようと伸ばしたの手を呂蒙は思わず掴んだ。力はさほど込めてはいない。が反射的に手を引けばすぐに離れてしまうくらいの弱さである。
しかし、の指は呂蒙の手を握り返してきた。これには呂蒙の方が驚き、を見上げる。
はこれまで見たことが無いほどの幸せそうな微笑で重なり合った二人の手を見ている。
呂蒙も応えるように指先に力を込めた。互いの声ですらこの場を崩してしまう様な気がして、二人はただ繋いだ手を見つめていた。その沈黙さえも心地よく感じる程、触れた手から温もりと共に伝わる互いの想いを感じていた。
しかし、その暖かくも甘い時間は乱入者たちによって終わりを告げた。

「おっさん!をしらないか?」
「夕べ部屋に戻っていないらしいんだ!」
「呂蒙殿、何かご存知で…?」

甘寧、凌統、陸遜が血相を変えて呂蒙の部屋に飛び込んで来たのだ。呂蒙とは、呆気にとられた表情で三人を見つめ、騒がしい乱入者達はこれ以上ない程目を見開き、大きく口を開けたまま固まった。宴にも執務室や私宅にも戻らなかったを探し、呂蒙の部屋に飛び込んだ三人。すると、そこには探し回っていたが呂蒙と共に居る。しかも、卓の上には二人分の食事の跡。卓の上で繋がれた二人の手。漂う甘い空気の名残。
半ば屍と化した三人が正気に戻るのにどれだけの時間を要するのか…

離れてしまってから、ようやく気付いたこの想いを伝える事すら諦めていた。
互いの気持ちが同じだと自惚れてしまってもいいのだろうか。朝の光の中で言葉の代わりに交わしたその温もりは、いつまでも二人の掌に残っていた。





― 劇終 ―




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