近頃、城内の空気は張り詰めている。は感じ取っていた。
戦が近い…将や軍師達が慌ただしく城内を行き来しているので間違いない。



は文官の身であるから当然軍議には出ないのだが、上官の司馬懿はそれに出なければならないので執務室を空ける事が多くなった。
自然と仕事は増える事となったが、それは彼女にとって苦にはならない。の気がかりは戦で命を落としたり、傷付く者が出ることが何よりも嫌だったのだ。



今回遠征に行く将が決まった。
張遼と徐晃がそれぞれ隊を組んで出陣する事となった。



張遼が廊下を歩いていると向こう側から書簡を抱えたの姿を捉えた。
これから曹操の執務室に向かうのだろう。しかし、いつもと違うその様子に張遼は気付いた。の表情はどことなく蔭り、俯いている。よく見れば足取りも悪い。
そんなの姿を見て声を掛けずにはいられなかった。



「…張遼…様」
呼び止められたの表情はやはり暗い。が戦を嫌っているのは周知の事実だが、この乱世において戦は避けて通れない。将である自分も出陣の命が下ればそれには逆らえない。
「此度の戦…張遼様と徐晃様が…出られるとお聞きしました…」
陽に当たると金茶に輝く髪と瞳はいつもとは違い哀しげな色でを彩っていた。
「はい…武人として戦に赴く…将たる者の務めです」
「でも私は…戦は嫌い…です…」
か細い声で答え、は書簡を抱える手に力を込めた。
「…では…戦を生業としている将もお嫌いですか?殿」
「い、いいえ!そんな事は…有りません…ただ…」
「ただ…?」
「誰かが傷付いたり…命を落とすのが…怖くてたまらないのです…」



嗚呼、と張遼はの心中を察した。
は幼い頃母親を病で亡くしている。残される者の悲しみを知っている。
各々の兵士にも家族が居る。彼らにもその悲しみを味合わせたくないのだろう。
そう考えて張遼は表情を和らげた。
殿は…お優しいのですな」
が思わず顔を上げると張遼は優しく微笑んでいる。
「張遼様…」
「心配は無用です、殿。この張文遠、一兵たりとも無碍にはいたしません」
張遼はそっと手を伸ばし、の髪に触れた。
「約束の証として…これをお預けいたします」
の髪に簪を挿した。
「ち、張遼様?」
先程とは打って変わって頬を染め、は慌てふためいた。
「笑ってくだされ、殿。貴女に暗い表情のまま、見送られるのはとても辛いのです」
「でも…」
「必ずや無事に帰って来ます…ですからその時も…笑顔で我らを迎えてくだされ」
「はい…分かりました…張遼様」
少し明るさを取り戻したが微笑んだ。



「でも張遼様…この簪…何方かへの贈り物ではありませんか?」
先程とは違った心配をは口にした。もしや、張遼の想い人への贈り物だったとしたら、自分がこの簪を髪に挿す訳にはいかない。
「心配召さるな、昨日城下で店の主人に半ば無理矢理買わされたのですよ」
事実半分、嘘半分…店先に並んだ簪がに似合いそうだと見ていたら、流石お目が高い、と店の主人に捕まって最終的には買う破目になってしまったのだ。
かといって、そのまま持っている訳にもいかず、どうしたものかと思案していた。



簪は張遼の見立て通りによく似合っていた。



曹操の執務室近くまで来るとは送ってくれた礼をした。簪が僅かな音を立てる。
「約束ですよ、張遼様。必ずやご無事でお戻りください」
「承知致しました、殿。その簪に誓って必ず帰って参ります」



曹操の執務室に向かったの後姿を見送りながら、張遼は呟いた。
「簪と…それと…貴女の笑顔に誓って…」
誰の耳にも届かない誓いを張遼は胸にしっかりと刻み込んだ。





― 劇終 ―




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