雲行きが怪しい。張遼は色の深さを増す灰色の空を見上げた。
「雨か…いや、それだけではないな」
微かに眉間に皺を寄せる。
それから程なくして、雷鳴が轟いた。
城内のあちらこちらから女官達の悲鳴が聞こえてくる。天の神の怒りともいわれる閃光と響く轟音。
文官や武官の中でさえ平静な振りを装いながら怯える者もいる。
人の身であるが故、どうする事も出来ないのだから怯えるのも無理は無い…と、張遼は考えている。
ただし、戦場でその怯えは許されない。一つの隙から戦局が覆される事も有り得るからだ。
城内を進み、執務室へと向かう途中で張遼は奇妙な塊を見つけた。
廊下の隅で…頭からすっぽりと披肩を被り、耳を塞いでいる。轟く雷鳴に合わせて肩を竦ませている。
よほど怖いのか、声すら出ない様子だ。その人物に近付き…張遼は驚いた。
それは紛れも無くであった。
司馬懿の執務室へ向かう途中だったのが、突然の雷雨に行く手を阻まれた、といった所か。
「殿」
意識して、いつもより優しく呼びかける。それでもびくりと肩を揺らし、はゆっくりと振り向いた。
「張遼…様」
雷鳴に必死に耐えていたのか、その瞳は涙で濡れ、微かに震える手で耳を塞いでいる。
がいかに雷を恐ろしく思っているのかを言葉より明確に表わしていた。
「大丈夫…ではないようですな」
へと優しく微笑みかけ、そっと手を差し伸べる。その手に自分の手を重ねようとが震えの止まらぬ手を重ねようとした時…
閃光が奔り、轟音が轟いた。
声にすらならない驚きに、は張遼へとしがみ付いていた。
張遼の腕の中に納まってしまう細い体。胸に添えられた手は震えながらも張遼の服をしっかりと握っている。
「…殿?」
声は届いてはいるのだが、対応まで出来ないのだろう。自分の服を必死に握る手に張遼は苦笑した。
この分では雷がこの地を離れるまで執務は基より、は城内を歩く事すらままならない。
震えるを優しくその腕に納めながら、張遼はの護衛達が現れない事を祈った。
曹操の側室の娘であるは、その容姿と才知で父親の曹操、兄の曹丕はもとより、夏侯惇や夏侯淵、曹仁に甄姫までもが彼女を大切に思う余り、時には戦場の護衛武将の如く近付く者に目を光らせている。
この状態を見られたら、間違いなく彼らは自分に武器を向けるだろう。
ある意味、雷に撃たれるよりも恐ろしい。
腕の中で震えるの髪を優しく撫でながら張遼は落ち着いた声で宥めるように囁いた。
「大丈夫ですよ、殿。この張文遠が傍に…居りますから」
そう言われての震えは少し治まったようだが、轟音が響く度に服を握る手に力がこもる。今のは頷くだけで精一杯らしい。
雷が遠ざかるまでは会話も成り立たないようだ。
張遼は、が少しでも安心できるように優しくその震える体を抱き締めていた。
「少し…遠くなりましたな」
体に響く轟音は雷雲が離れつつある事を物語っていた。その事に少し惜しむ気持ちは有ったが、このままでいる訳にはいかない。
「どうですかな、殿。まだ…震えは止まりませんか」
肩と背に回していた手を二の腕に滑らせるようにして尋ねた。
はきつく閉じていた眼をゆっくりと開く。
時折響く雷鳴に少し驚くものの、先程とは明らかに遠く聞こえる。
それを確信したは徐々に自分の状況を把握した。
雷に怯えて我を忘れていたとはいえ、握りしめていた張遼の服には、しっかりと皺が出来ている。
我に返ったは真っ赤になってその腕から逃れようとしたが、張遼はを逃がさなかった。
「落ち着いてくだされ、殿。まずは、ゆっくりと息を整えてから」
張遼の言葉の通りに深く息を吸い、吐き出す。それを何度か繰り返していくとも少しは落ち着いたようだ。居場所は相変わらず張遼の腕の中だったが。
「あ…あの…張遼様…」
「落ち着きましたか?」
「はい…あの…ご迷惑をお掛け致しました…」
まともに張遼の顔を見るのが照れ臭いのか、俯いたままが張遼に詫びる。
表情は見えないが、耳まで真っ赤にそまっていた。
そんなに張遼は口元を綻ばせる。空は明るさを取り戻し、の髪を金茶に輝かせる。
「迷惑ではありませぬよ、殿。雷は人知を超えたもの。己の及ばぬものを怖れるのは人であれば当たり前なのですから」
張遼の言葉には顔を上げた。少し涙の残った瞳は髪と同じ輝きを放っている。
「張遼様は…雷が怖ろしくはありませんの?」
「戦場に立つ身故、雷で自軍の戦局を危うくさせない為にも慣れました」
「慣れる…ものなのですか?」
の問いかけに張遼は微笑み、金茶の瞳に残った涙を優しく拭った。
「もともと平気な性質だっただけかもしれませぬが」
「少し…羨ましいです…私…あの閃光と轟音が…どうしても…怖ろしくて」
「恥じる事はありませんよ、殿。人というものは何かしら苦手なものが有って当然なのですから」
「それでは…張遼様は何が苦手なのですか?」
城内も少しづつ落ち着きを取り戻し、各々が放り出していた仕事に戻っていく。
も司馬懿の所へ行かなければならないので、張遼の答えは聞けずじまいだった。
「いつか、お聞かせくださいね」
張遼の腕から解放されたはそう言って司馬懿の執務室へ向かった。
雷が遠ざかるまでを抱き締めて居た為、張遼の服には梅の香の残り香が染み付いていた。このままで居たのならば、の護衛達に気付かれるのは時間の問題。
惜しい気もするが、執務室に着いたらまずは着替えなければならないだろう。
雷に耐えようと必死に張遼にしがみ付いていた。一人でいた彼女を見つけたのが自分で良かったと張遼は考えていた。
そして…雷が遠ざかるまで誰とも会わなかった事も…そんな事を考えていたとは気付かれないように張遼は振る舞っていた。
が、そんな思いの隙間を縫ってのの質問に張遼は言葉を詰まらせた。
父や兄達の過保護故か、疎さもあるものの時には鋭い問いをしてくる。
「苦手なもの…ですか…いつかお聞かせできますかな」
いつか…自分の横で、自分の為に微笑むに…彼女を大切に思うが故の護衛達の視線が苦手でした、と。
−劇終−
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