張遼は庭の東屋を見て驚いた。
細かく解説すれば、東屋の近くにある木の根元だ。
そこには木の幹に背を預け、無防備に眠っているの姿があったからだ。

曹操の側室の娘であり、文官として司馬懿の補佐を務めとしている
此処の所、他の文官の様子を見れば暇なようで、古い書簡の整理をしたりする姿も見受けられる。
は司馬懿の補佐をする傍ら、曹操の逃亡予防の為、二つの執務室を行き来している。
そういえば曹操は夏侯惇と共に城下へ視察に行っている筈…にとって降ってわいた休息の時間…といった所か。

天気は良好だが、このまま放っておいては風邪をひいてしまうかもしれない…

張遼はの傍へとゆっくりと、起こさないように足を進めた。
木漏れ日の光にあたった母親譲りの髪は金茶に輝き、同じ光の瞳は今は長い睫毛と瞼の下に隠れている。穏やかに眠るその表情に張遼の心が和む。その寝顔を見ていると起こすのが忍びなくなってしまった。
曹操の娘という厚遇に甘んじる事無く、いつも懸命に務めを果たし、誰にでも穏やかに対応する。彼女を慕う者が多いのは周知の事実である。

…それは…自分も含めての事…

すぐ傍まで近付いてもが起きる様子は見られない。
この陽気に気持ち良さそうな寝息をたてていた。何か良い夢でも見ているのだろうか。
しばらくその寝顔を見ていた張遼はの横に腰を下ろした。

穏やかな陽気、風に心地よい音を立てる木の葉、柔らかい何かに包まれるような感覚。
これでは、たとえ望まなくても一眠りしたくなってくるだろう。
風を感じるように目を閉じた張遼の肩に何かが触れ、重みがかかった。
驚いて目を開ければ、其処には肩にその身を預け、すやすやと眠り続けているの姿…

張遼は苦笑するしかなかった。
自分の周りだけ違う時間が流れているような感覚と肩から伝わる温みに満足気に目を細めた。
肩をに貸したまま、張遼は周りの様子を伺った。
の眠りを妨げるものが無いように、この柔らかで心地よい時間が少しでも長く続くように…

それからしばらくすると、少し強い風が二人の隙間を通りぬけた。

「…ん…」
もぞり、とが動いた。どうやら今の風で目が覚めたようだ。
は自分の状況を把握するかのように、しばしの間ぼうっとしていたが、自分が頭を預けていた張遼の姿を見ると真っ赤になった。
「ち…張遼…様!」
「お目覚めいかがですかな、殿」
「す、す、すみません!眠っていたとはいえ、肩をお借りしてしまって…」
「お気になさらずともよいのですよ、殿。それより、この陽気とはいえ此処で眠ってしまっては風邪を召されてしまいます」
「は…はい…少し位ならと大丈夫だと思ってうっかり…」
「私は…貴女の無防備な姿を、他の者には見せたくありません…」
「張…遼様…」
頬に赤味を残したまま、は張遼を見上げた。
視線が合った。二人とも逸らす事なくそのまましばし見つめ合っていた。

張遼の手が自然とへと伸び、その頬に触れた。

直後、女官達が慌ただしく廊下を行き来し始めた。おそらく、曹操が戻ったのであろう。
ハッと我に返った二人…特には再度顔を赤らめ、張遼は少し苦い表情を見せた。

「どうやら、殿が戻られたようですな」
「そ、そのようですね」
殿…私はよろしいですから、殿の所へ。貴女の出迎えが無いと一騒ぎ起きそうですから」
悪戯気味に笑みを浮かべる張遼の言葉にも頷き、その場を後にした。
数歩進んだ所で張遼へと振り返る。

「張遼様、肩をお貸しいただき、有難う御座いました。これからは気をつけます」
頭を下げて礼をすると少し足早に父・曹操の元へと急いだ。

後姿を見送り、の姿が見えなくなると、張遼は腕を組み木の幹に上体を預けると静かに瞳を閉じた。
あのまま、曹操が帰って来なかったら…どうなっていたのか…
空を見上げると風に揺れる葉と流れていく雲が視界に入る。

自分の肩にその身を預け、気持ち良さそうに眠っていた
目が覚め、真っ赤になりながら慌てて詫びと礼をする彼女に思わず触れたくなった。

少し前までは何故か視線を逸らすに不安を覚えた張遼だったが、先程のは目を逸らすどころか掌が触れても嫌がる事もなく張遼を見つめていた。

これは…自惚れてもよい、という事なのだろうか…

それにしても…その瞬間を見計らったように帰ってきた曹操には感服し、張遼はこの想いの障害の難易度の高さを改めて思い知ったのだった。






― 劇終 ―




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