書簡の処理が一段落し、呂蒙は椅子に座ったまま両手をあげて体を伸ばした。
執務は相変わらず多忙であったが、昨日の休養のお蔭か疲労の色は薄い。窓からの風が髪を軽く揺らし、呂蒙は目を閉じてその感触を味わった。
「です。呂蒙殿、いらっしゃいますか?」
扉を軽く叩く音と、心地よい声。はかつての呂蒙の部下であり、今は甘寧の副官を務める武将である。戦場では単騎で敵陣に切り込む甘寧を連れ帰る為の退路の確保、執務では書簡から逃亡する甘寧の捕縛など、地味ながらも様々な武勲を挙げている。を甘寧の副官に推挙したのは呂蒙自身なのだが、自分の手元を離れてしまってから彼女への想いを自覚するという、なんとも間抜けな展開に打ち明ける事さえ諦めていた。
ところが、どうやらもそれは同じであったようで、とある切っ掛けで互いの想いを知る事となる。彼女を慕う者が多かった為、しばらくの間呂蒙は肩身の狭い思いを強いられた。が、それらも直ぐに気にならなくなる程、呂蒙の気持ちは満ち足りていた。
「甘寧殿の書簡です」
両手に書簡の束を抱えてが室内に入ってきた。その量を見ると呂蒙は慌てて立ち上がり、へ駆け寄った。
「昨日私が休みだった所為か、こんなに溜め込んで下さっていました」
呂蒙が書簡の山を受け取るとは苦笑いをしながら小さく溜息をついた。ここしばらくは執務もきちんとこなしていた甘寧に一日くらいなら大丈夫、と大見得をきられて任せたのが間違いだったのかもしれない。これには呂蒙も呆れるしかなかった。
「まあ、何にせよ、片付いたのならそれで良しとしてやれ」
労をねぎらうように笑いかける呂蒙に、も微笑みで応えた。
「そういえば、周瑜殿が走り回っておられましたが…」
もしや、また?と言葉を続けてが首を傾けると呂蒙は眉間に皺を加えた苦笑を浮かべて頷いた。
「周瑜殿も大変ですね…」
どうやら彼の義兄弟はまた執務室から逃亡を果たしたらしい。その度に周瑜が探し回るのは、この城内では日常の風景と化している。甘寧の方が言い包める事が出来るだけ、まだ良いのかもしれない…と、その苦労の一端を知るは心の底から周瑜に同情した。
「せっかくだ、茶の一杯でも飲んでいかないか?」
いつもは直ぐに返事をするの言葉がない。俯いたまま、両手を握り締めている。不思議に思った呂蒙が顔を覗き込もうとすると、は急に顔を上げた。
「あ、あの…呂蒙…殿…その…」
顔を赤らめ、言葉も途切れがちに何かを伝えようとする。その様子があまりにも愛おしくて、呂蒙は抱き締めたい衝動に駆られたが、の性格からすると動揺して何も言えなくなってしまうだろう。呂蒙は堪えて彼女からの言葉を待った。
「き、昨日の呂蒙殿からのお話の答えなのですが…本当に、よろしいのですか?」
(あの事か…)
昨日、呂蒙とは休みが久しぶりに重なったので二人でゆっくりと過ごした。その時、呂蒙はに一つ頼みというか申し出をしたのだ。呂蒙にとっては当然の望みなのだが、にとってはかなり恥ずかしいらしい。
「構わん。それと、昨日も言ったように無理をする事も急ぐ事もない。お前の気持ちが追い付いてからでも遅くはないだろうし、少しずつでも続けていれば慣れるだろう」
呂蒙はの肩に手を置き、微笑んだ。もまた、肩に置かれた呂蒙の手に安堵したのか微笑を返した。
「何だ、何だ?面白そうな話じゃねえか」
突如として窓から場違いな声。二人が顔を向けると、今城内で決死の捜索の対象となっている男が目を輝かせながら窓枠から身を乗り出している。
「孫策様?!」
真っ赤になりながらが声を上げると、孫策は静かにしろ、と言いたげに指を唇の前に立てた。
「孫策殿、何故にここに?」
「周瑜が俺を探してるだろう?鍛錬場とか厨房とかは直ぐ見つかるから、呂蒙の所なら盲点かと思ってな」
呂蒙が幾分声を抑えて尋ね直す孫策は得意そうに胸を張った。成る程、一理ある。書簡から逃げ出した孫策がよもや軍師の一人である呂蒙の傍に身を隠すとは誰も思わないだろう。見つかると即刻執務室への強制送還となるが、危険の大きい分捜索の手は及びにくい。孫策にしてはよく考えたものである。ここで陸遜を選ばなかったのは野生の勘であろう。
「で?何の話をしてたんだ?教えてくれてもいいだろう?」
興味深々の面持ちで喰い付く孫策にはどうしていいのか分からずに呂蒙を見上げた。呂蒙は小さく咳払いをすると一つ提案をした。
「申し上げてもよいのですが、周瑜殿の事を考えるとただお教えするのは…」
「何だよ、条件つきかよ!別にいいじゃねえか」
少し大きい声で抗議をする孫策だったが、すぐ目の前に転がっている美味しそうな話を逃したくない気持ちに負けそうになりながらも踏み止まるように悩んでいた。
「甘寧殿はなんとか書簡を片付けましたよ。このままでは孫策様が不名誉な称号を得るのも時間の問題かもしれませんよ?」
すかさずが援護に回ると、孫策はあっさり陥落した。
「あー、もう分かった、聞いたら執務室に戻るから教えてくれよー」
頼む!と、手を合わせる孫策に呂蒙とは顔を見合わせて微笑んだ。
その前日。久しぶりに休みが重なった事もあり、呂蒙はを遠乗りに誘った。しばらく城に籠もりきりだった為、気分転換も兼ねて出かけたのだ。それを聞いた呂蒙の私宅の使用人である李明は大喜びで弁当をこさえて二人を送り出した。彼女は牛よりも遅い歩みの二人の仲に一番心穏やかでいられなかったから、それはもう大喜びで。泊まってきてもいいですからね、と囁かれ、呂蒙は危うく弁当を落としかけた。
春から夏へと移ろうとしている頃であるから何日か晴天が続いていた。頬を撫でる風は二つの季節が交互に、時には混ざり合って通り過ぎていく。季節を肌で感じ、時折馬を止め景色を眺めながら語らう。時間に追われることも無く気ままに二人で過ごす。何もかもが久しぶりであった。
しばらくすると小腹も空いてきたので、李明の持たせてくれた弁当を食べようと二人でよく行く泉へと向かった。初めて二人で遠乗りに出掛けた時に見つけた場所で、森の少し奥になる為人目に付きにくく、静かに過ごすのには申し分のない場所である。秘密の場所、といっても此処を知っている人物がいるかもしれない。が、二人は誰にもこの場所の事を話していなかった。
呂蒙は馬に水を飲ませ、手綱を手近な木に結ぶ。その間には食事の用意をした。食事と会話をゆっくりと楽しみ、風に揺れる木々と泉から聞こえる水音に目を閉じる。そうすると、うっかり眠り込んでしまいそうになる程穏やかで心地よい時間…そんな呂蒙の様子に気が付いたは微笑を漏らした。
「呂蒙殿、少し眠られてはいかがですか?昨日までお忙しかったのですから、この陽気では眠くなりますでしょう?」
「いや、大事ない。眠ってしまっては、折角の時間が惜しい」
呂蒙がの頬を掌で包む。伝わる温もりを確かめるようには目を閉じた。
「私は、こうしてお傍に居られるだけでも充分嬉しいのです」
ゆっくりと目を開けて微笑むと、自分の膝を軽く叩いた。
「寝心地の悪い枕かもしれませんが…宜しければ、どうぞ」
これには呂蒙が驚いた。がこの様な行動をとるとは…ただ、やはり照れくさいのか頬は赤い。
「では、言葉に甘えさせてもらうが…よいのだな?」
「ええ…でも、出来ればあまり動かないでくださいね」
「さあ、それは約束しかねるかもな」
悪戯気味に笑えば、の頬は赤みを増した。
膝を呂蒙に貸してややしばらくは短い会話もあったが、やはり疲れていたのだろう。聞こえてきた寝息には満足げに微笑んだ。起こさぬように、そっと指で呂蒙の髪に触れると見た目よりも柔らかなその感触を楽しむ。軍師という職務に就いている為か、いつも気を張っている呂蒙が自分にだけ見せてくれる無防備な姿。自分ひとりの特権であり、自分が護りたいと願ってやまない大切なもの…その為ならば、どんな苦難も厭わないだろうとは心の奥底にその誓いを刻むように目を細めた。
呂蒙が眠りから覚めると風が少しではあるが、ひんやりとしている。肩にはが掛けてくれたのか赤い生地に控え目ながら金糸で刺繍が施されている外出用の上着があった。
「…お目覚めですか?」
そっと語りかけてくる声に向かって寝返りを打つと、膝の上に頭を乗せたままと向き合った。
「ああ、お蔭様でな」
「それは何よりです」
陽は西へと向かい下降し、家に着く頃にはおそらくその姿を隠してしまうだろう。少しばかり寝すぎてしまったか。終わりつつある二人の休日に惜しい気持ちと、折角の時間をただ無駄に過ごさせてしまった申し訳ない気持ちが呂蒙の中に入り混じる。しかし、そんな気持ちもにはお見通しだったらしい。呂蒙の頬に触れながらそっと囁いた。
「今度は、私にも貸してくださいましね?」
何を、と思った呂蒙に更には照れながらも言葉を続けた。
「膝を、です」
「それは構わんが…ちと硬いかもしれないぞ?」
思わず苦笑する呂蒙は肘で支えるように自分の上体を少しだけ起こすと、片方の手をの首の後ろに伸ばしその唇を自分へと引き寄せて重ね合わせた。
帰り支度を済ませて手綱を木から解くと、不意に呂蒙はへと向き直った。どうしたのかと不思議な表情のに呂蒙は言葉を掛けた。
「、ひとつばかり頼み事があるのだが」
「何でしょう?」
「これからは俺を字の方で呼んでくれないか」
首を傾げたまま、言われた事を頭の中で反芻していたのか動かなくなっていただったが理解したのであろう、見る見るうちに夕日よりも真っ赤になった。
「りょっ、呂蒙殿…?!」
「子明、だ」
手綱を握り締めたまま湯気でも出そうなに呂蒙は静かに、しかし確かな口調で告げた。言葉を忘れてしまったかのようには口を開けたり閉じたりするしか出来なかった。呂蒙の字を知らなかった訳ではなし、一応は恋仲といってもいいのだからそう呼ぶのもおかしくはないだろう。しかし、いざとなると恐れ多いというか、恥ずかしくてたまらない。
このまま放っておいたら本当に煙でも上がってきそうだと、呂蒙は苦笑しながら言葉を続けた。
「直ぐにとは言わん。呼び難ければ二人だけの時だけでも構わないから、少しずつ慣れていけばいい」
では、帰ろうかと呂蒙は馬に跨った。今の提案に少し安堵したのかもそれに続いた。いつか…自然にそう呼べる日が来るのだろうか。呂蒙の少し後ろで馬を進めながら、は声には出さなかったものの唇の動きだけで密かに呂蒙の字を紡ぐ。当然ながら呂蒙はその事には気付かなかった。
「まあ、そんな訳です。孫策殿」
話し終えた呂蒙の後ろに隠れるようにが俯いている。おそらく顔は赤いのであろう。
ちなみに呂蒙が話したのは最後の部分、字の所だけである。いくらなんでも膝枕で昼寝をしましたと人に話して聞かせる話ではない(当たり前だ)。
身を乗り出し、期待に満ちた姿勢で聞いていた孫策はといえば、力が抜けたように窓枠から姿を消した。驚いた二人が窓へ駆け寄ると地面にへたり込んでいる孫策。声をかけていいものか様子をみていると、孫策は大きいが力の抜けた溜息を一つ吐き出して呟いた。
「……お前ら…もうとっとと結婚でもなんでもしちまえよ…」
その後、周瑜は力なく歩く孫策を発見し、その身柄を拘束した。しかし、いつもとは明らかに違うその様子に周瑜は驚きを隠せない。理由を尋ねる周瑜に孫策がぼそりと答えた。
「周瑜…他人の惚気ほど力の抜ける話は無いずぇ…」
経緯の全く解らない結論を告げ、ふらふらと自ら執務室へ入っていく孫策の姿を周瑜はただ黙って見送った。その様子があまりに気の毒に見えたのか、今回の逃亡に関してだけは周瑜が孫策を責める事は一度も無かった。
― 劇終 ―
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