新しい年を迎えると、誰もが期待に胸を膨らませる。新たな志を掲げ誓う者から新年の宴で振る舞われる酒に期待を寄せる者など様々で、誰もがそわそわと落ち着かない。しかし、そんな城内で只一人、お祝いとは程遠い状況に追い込まれている武将がいた。
「さあ、観念なさい!」
壁に追い詰めた獲物に嬉々として宣告を下す尚香。
「尚香様、後生ですからお許しください」
戦で見せる勇猛さは何処へやら、壁に張り付き許しを請う。
「いいえ、聞けないわよ。今回は私達だけではなくて、父さまにも協力してもらったんだから簡単に引き下がるわけには行かないのよ」
腰に手を当て、胸を張る尚香。周りを女官に包囲され、その輪も少しずつ縮められていく。武将や男共ならば力尽くにでも突破するのだが、自分より明らかに力の劣る者に武力で抵抗するわけにはいかない。尚香の狙いは見事に的中し、はかつてない危機を迎えていた。戦場で敵兵に囲まれた方がマシだったろう。しかも尚香だけでなく取り囲む女官達も嬉しそうな表情を浮かべているのが却って恐ろしい。
「さあ皆、一気に攻め落とすのよ!」
尚香の掛け声でいっせいに距離を縮められ、は呆気なく捕縛されてしまった。
「観念なさいませ、様」
「私たち、この日が来るのを楽しみにしておりましたのよ」
「さて、行くわよ!ちゃんと付いて来てね」
尚香を先頭に女官に囲まれたが連行されていく。
(助けてください、子明様!!)
両腕にしっかりと絡みついた女官達を見下ろし、は心の中で呂蒙に助けを求めた。
「陸遜、さん見なかったか?」
宴会場に入ってくるなり凌統は陸遜へと幼馴染の消息を尋ねた。呂蒙の部屋を出た後、誰に聞いてもの姿を見ていないのだ。
「殿ですか?さあ…私も呂蒙殿の部屋でお会いしたきりですが、どうかされましたか?」
「ずっと探しているんだけれど、誰も見ていないっつうんだよ。新年の宴に顔を出さない筈はないとは思うが、何だか胸騒ぎがして落ち着かなくってさ」
「それは、もしや…殿の身に何かが?」
息を呑み、厳しさを増した視線を向けると、凌統がまさかとは思うけど、と頷いた。
呂蒙はあれから執務室に篭もって最後の書簡を仕上げているから当然の行方を知らない。孫堅を始め孫策と孫権は、新年を迎えて挨拶に訪れる者達の相手をしたり、朝から大忙しである。周瑜、太史慈、周泰は警護の為彼らの傍に付きっきりである。当然には会っていない。黄蓋は今、陸遜らの目の前で大張りきりの様子で酒瓶を運んでいる…と、なると…
「あの馬甘寧!まさか!」
「我らの目が届かないのをいい事に、もしや殿を?」
同時に達した結論(消去方だが)に顔を見合わせる凌統と陸遜。その表情は穏やかさとは程遠く、例によって若き軍師の手には瞬時に弓矢が装備された。
「よお、何やってんだ?野郎同士で見つめ合って。気色悪ぃな」
鈴の音と共にお約束のタイミングで甘寧が現われた。が、直後二人から放たれた殺気に思わず半歩後ずさった。
「てめぇ、よくぬけぬけと顔を出せるな…」
「殿をいったい何処へ連れ込んだのですか?」
「…はぁ?何のことだ?」
「惚けるなよ、ネタはあがっているんだ」
「言い逃れをする気なら、容赦はしませんよ」
直後、宴会場から上がった甘寧の悲鳴に誰もが驚いたものの、相手が陸遜と凌統だった事から、いつもの事かと余り気にされなかった。
「何、膨れっ面してんだよ」
「新年早々、鬱陶しいですよ」
謂れのない疑いをかけられ、白状しろと詰め寄られ、何の事だと尋ねれば惚けるなと問答無用で袋叩き…これで不機嫌にならない人間はいないだろう。しかも、加害者の二人は涼しい顔をして宴席に座している。
「てめぇら…勝手に人を誘拐犯にしやがって…詫びのひとつも無ぇのかよ」
「そんな事言っても…なぁ?」
「日頃の行いの賜物ですね」
侘びの言葉はおろか傷口に塩を擦り込まれるような扱いに、甘寧の機嫌は悪くなる一方だった。
「…で?結局あいつは何処行ったんだよ」
甘寧の意識が九泉に差し掛かろうとした時に宴会場へ料理を運んできた女官達から、が尚香らに引っ張られていくのを見たと聞いてようやく無罪放免となったのだ。
「何処ってもなぁ…」
「尚香様が何やら企んでおいでのようですからね」
見当も付かずに三人が考え込んでいると宴の刻限が迫り続々と人が集まってきた。その中には呂蒙の姿もあり、三人の姿を見ると近付いて…まずは甘寧の無残な姿に驚いたものの、涼しい顔の凌統と陸遜が気にしないでも良いですから、と答える。それは普通ならば甘寧が言うべき事なのだが、この二人にかかっては訴えたとしても徒労に終わる。
ふと、探すように場内を見回す呂蒙に陸遜が答えた。
「殿ならまだ来ていませんよ」
何故分かったと言いたげに呂蒙が目を丸くするが、凌統と甘寧は他に誰を探すんだと呂蒙に半目のまま視線を送った。
「姫さんに連れて行かれたらしいんだと」
甘寧が膝に頬杖をついたままで教えると呂蒙が思い切り複雑な表情をした。安心していいのか、更に不安が募るのかどうしていいのか分からない様子だ。
気持ちは分かるけれどね、と凌統は思いながら呂蒙を見ていた。新年という華やいだ空気に勢いづいて、何を企んでいるのか…悪いようにはされないと分かっていても手放しで安心できないのが孫家の尚香たる所以か。
その時、孫堅が孫策と孫権とを伴い姿を現した。
新年の祝いと奨励を孫堅が語り終えると宴会が始まったが、未だに尚香らとの姿は無い。流石に心配の割合が上回ったのか呂蒙は落ち着かない。
「おっさん、無理に落ち着けとは言わねぇけど…普通杯から徳利に酒は注がねぇと思うんだけどな」
甘寧に言われて呂蒙が自分の手元を見ると、杯から徳利の注ぎ口に器用に酒を注いでいる奇妙な光景に驚いた。その拍子に酒が溢れて膝を濡らす。慌てて布をもらいそれを拭っていると入り口からなにやら声が聞こえてきた。
「ここまで来たんだから、いいかげん覚悟しなさいって」
「せっかく奇麗にしたんだから勿体無いよぉ」
「大丈夫、皆さん褒めてくださいますよ」
「だからって、ここまでなさる事ないじゃないですか…て、そんなに引っ張らないでください小喬様!」
尚香、小喬、大喬の声…とすると何やら抗議の声を上げているのは…
「…?」
呂蒙だけでなく、甘寧、凌統、陸遜…その他大勢が入り口へと視線を向ける。すると、尚香が姿を現し、皆の視線が注がれているのに満足気な微笑みを浮かべた。
「ほら、ってば早く!」
小喬が手を引き、大喬に背を押されて姿を見せたのは…
会場が水を打ったように静まり返った
杯から酒が零れ落ちる者、料理を口に運ぶのも忘れて呆ける者、孫堅に拱手をしたまま顔を宴会場の入り口へ首を向けて筋を違える者…小喬がその手を引き、大喬がその背を押して連れてきたに誰もが目を奪われた。
「ほぉ、良く似合うではないか」
孫堅が満足気に目を細め、口を開いた。その声に我に返った者達の視線が再びに注がれた。
孫呉を象徴する赤い生地の着物。それは女物として誂われた物で、過ぎた華美はなく程よく金糸の刺繍で飾られ、淡い桃色の披肩が纏う者を柔らかく彩っていた。長身のに合わせてか、頭の低い位置で結われた黒髪には簪が色を添えている。控え目ではあるが化粧も施されている。いつも男物を手直しした飾り気の無い布衣姿のからは想像も付かない程の出で立ちに見ている者達から溜息が漏れた。普段とかけ離れた姿であるから無理もないのだが…見られている方は堪ったものではない。全ての者の視線を一身に浴び、恥ずかしさで逃げ出したくても足が竦んで動く事が出来ない。小喬に握られていない手で披肩の端を掴んで顔を隠すのが精一杯である。
「どう?見違えたでしょ?」
自分の事のように胸を張る尚香と小喬。大喬は照れ臭くて顔を隠しているの片手を優しく引いて歩き始めた。会場の真ん中を歩く四人に合わせて皆の視線が移動する。傍から見ればなんとも異様な光景である。やがて、孫堅の前まで進むとは君主への礼儀を果たす為深々と頭を下げた。普段からその動作が美しいと定評があっただが、着ている装束の効果も相成って実に優美である。孫堅の隣で口を開けて惚けたままの孫権の気持ちも分からなくもない。
「どうだ?我らからの贈り物は気に入ってもらえたか?」
悪戯気味に笑う孫堅には咄嗟に声が出せない。
尚香や女官達に連行されて辿り着いた部屋では満面の笑みを浮かべた二喬に出迎えられた。即座に自分の身に何が起こるのか悟ったは女官達を両腕にぶら下げたまま逃亡を図ろうと振り返ると…そこには腕組みをした孫堅が立っていた。
「何処へ行く気だ?」
江東の虎の不敵な笑みを向けられては最早成す術なしと諦めざるを得ない。宴の席だけでも女物の着物で着飾れと尚香や二喬達に言われ続けていただが、普段と違う服を着るのがどうにも照れ臭いのと、自分には似合わないだろうという勝手な見解でそれを拒んでいた。動きづらいから、などと苦しい言い訳で逃げ続けていたのだ。しかし、業を煮やした尚香が二喬や女官、果ては孫堅までをも味方に引き入れて今回の作戦を決行したのだ。かくして、は尚香らの手によって今まで体験した事が無いくらいに飾り立てられる事と成り果てたのだ。
「わ、私には勿体無いくらいで…その…」
言葉に詰まり何を言っているのか分からなくなっているに孫堅はうって変わって優しく微笑んだ。
「そなたの両親も、その姿を見ればさぞ喜ぶであろうな」
孫堅の口から今はこの世にいない二人の話が出ては顔を上げる。そこには「親」の顔をした孫堅がいた。父は凌操の護衛を、母は孫堅の女官を務めていた為当然の事ながら孫堅は二人を見知っている。母はが物心のつく前に病で、父はその十数年後に凌操を庇って戦でこの世を去った。孫堅や凌操は自分達の子供もと同じ位である為か事あるごとに彼女を気遣った。もそれに応えようと懸命に様々なことを学び、孫呉の為にと働いた。
但し、その反面一般的な女性らしさには疎くなってしまったらしく流行の装飾や香などがさっぱり分からない。二喬や女官などが熱心に教えても暫くすれば、すっかり頭から抜け落ちている。覚えていたとしても、既に流行は変わってしまっていたり…そこがいいという女官も一握り程いたりするのだが、今は省いておこう。
孫堅の言葉を受け、の表情にいつもの落ち着きが戻ってきた。
「本当に…素晴らしい品を賜り、お礼のしようも御座いません。これまで以上に孫呉の為に身を粉にして励む所存に御座います」
再び礼を示すに満足気に微笑む孫堅と尚香と二喬の面々。ちなみに孫権はようやく我に返ったようだ。
「うむ、期待しておるぞ。さあ、皆も今日は存分に楽しんでくれ」
孫堅が杯を掲げ、一気に酒を飲み干すとそれに続いて皆も杯を空け、宴の席は再び賑わいを取り戻した。
大喬に手を引かれ、はいつもの宴会での位置、即ち上官である甘寧のいる席までやって来た。やはりいつもと違う視線が恥ずかしいのか顔は俯き気味であった。
「殿、よく似合っておいでですよ」
「さん、そこまでとは言わないからさ、普段から女物も着てみなって。絶対似合うから」
陸遜と凌統がいち早く駆け付けてを褒め立てた。声の数が足りないと大喬が甘寧の方を見れば…口を開けて惚けたままで。
「……すげえ」
何が、と一同が突っ込みたくなる一言だけしか発しなかった。そんな甘寧の奥に目をやれば…同じように惚けている呂蒙の姿。しかも、零れた酒を拭っている布を手にしたままで。その奇妙な姿に思わず一歩を踏み出しただったが…
「…えっ!?」
普段着慣れていない長い裾を踏んでしまい、前のめりになる。体勢を立て直す事も出来ずにそのまま転びそうになったは、思わず目を閉じて衝撃を覚悟したが…誰かに抱きとめられたのかその難を逃れていた。そっと目を開けば安堵した呂蒙の顔。
「…子…明様…」
「大丈夫か?」
「はい…あの…申し訳ありません」
優しく体勢を直されたは普段の服より薄手の生地を通して伝わる呂蒙の腕の感触に戸惑っていた。呂蒙もまた、手に伝わるの肩の柔らかな感触が心地よく離れがたかった。が、周りの視線に気付くと二人同時に真っ赤になって離れた。
「呂蒙さんもも、顔、真っ赤」
小喬が愉快そうに指摘すると呂蒙はわざとらしく咳払いをした。
「ど、どうやら飲み過ぎてしまった様で。少し、外の風で酔いを醒ましてきます」
杯から徳利に酒を注いでいただけで飲み過ぎでなどある筈がないのだが…顔が火照っているのはどうしようもない事実で、外の風でなければ冷めそうもない。
数歩、庭へ通じる窓へ歩き始めた呂蒙が振り返った。に向かってそっと手を差し出す。
「共に来るか?」
「……はい」
頬を染め、呂蒙の手に自分の手を重ねる。呂蒙は着慣れない服で歩きにくいを気遣い、時折振り返りながらゆっくりと歩いている。その姿をある者はうっとりと、又ある者は悲しげに、様々な感情で見送った。
「…てめぇら…一度ならずも…」
そんな中、怒りの篭もった声を出したのは他でもない甘寧だった。が転びかけた時、一番近くにいたのは甘寧で咄嗟に抱きとめようと両手を差し出したまではよかったが…直後、陸遜の足が横から伸びて無残にもそのまま転び、それにも負けじとすぐに起き上がろうとしたが…凌統の足が甘寧の背を踏みつけた。その間には呂蒙の腕に抱きとめられたのだ。
「殿を抱きとめようなんて大それた事をさせる訳にはいきませんから」
「お前なら、抱きとめてそのまま掻っ攫いそうだっつうの」
日頃の賜物か誰も同情してくれなかった。哀れな彼の一年に幸多かれと祈ろう。
少しだけ建物から離れた所で呂蒙は立ち止まった。振り返るとへ手を伸ばし、まだ火照ったままのその頬へと触れた。驚くだったが、呂蒙の手の心地よい感触に目を伏せる。そんなの仕草に思わず呂蒙は唇を重ね合わせる。そっと触れ会うだけの優しい口付けには微笑み、呂蒙の胸に顔を埋めた。
「いつもと違う服というだけなのに…なんだか…自分じゃないみたいです」
「よく似合っている、…」
「お世辞でも嬉しいです」
「俺は、世辞は不得手だ」
呂蒙の唇に付いてしまった紅色を指先で拭うと腕の中で小さく笑う。すると呂蒙は抱き締める腕の力を強めた。
「子明様?」
今、庭には二人だけ。囁く程度なら誰にも聞かれる事は無い。
「出来ることなら宴の席に戻らずに、お前をこのまま連れ帰りたいくらいだ」
耳元で囁かれた言葉には一層頬を染めた。
「それにしても…結局おっさんがいいトコ全部持って行っちまったよなぁ」
「当たり前だろうが。呂蒙さんだからこそ、皆が納得してるんだっつうの」
自棄も手伝ってか酒を呷る回数が早い甘寧。そんな甘寧に酒を注いでやりながら凌統が答える。
「そうですよ、想像すらしたくないですが相手が甘寧殿だったなら私達は黙って見ている事も容赦もしませんからね」
「…どういう意味だ、陸遜」
「そのままの意味だろうが。馬甘寧」
「…な」
「その通りよ!いい事いうじゃないの陸遜!」
突如現われた尚香に怒る事すら出来なくなってしまった甘寧。
「甘寧に渡すくらいなら、私がを攫っちゃうんだから」
「………姫…さん?」
「権兄様にだって渡さないわよ!」
声高らかに笑う尚香とは対照的に皆が静まり返った…我らが姫君は今、何と言った?
「あ、兄上…」
「…あぁ、尚香の奴…かなり酔ってやがるな…」
成す術なしと諦め果てた兄二人、その傍でただ引き攣るしか出来ない周瑜と太史慈、表面上はいつもと変わらないが僅かに目を見開いている周泰。小喬は面白がって拍手を送るが、大喬はどうしていいのか分からず苦笑い。孫堅と黄蓋も酒ですっかり出来上がったのか頼もしい娘に向かって声援を送る始末。
庭で語らう二人を無視して、今年も騒がしく孫呉の一年は始まりを告げたのだった。
― 劇終 ―
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