月の光に照らされて





、あまり夜風に当たるな。風邪をひく」
「はい、おじ上」
宴がひらかれた夜、は月があまりにも見事なので、庭を歩いていた。横にいるのは夏侯惇…の護衛の筆頭といっても過言ではない。
「でも、こんなに見事な月、滅多に見られないので、もう少し見ていたいのです」
陽の光に当たると金茶に輝く髪は月の光に当たるとまた別の輝きを見せる。それは淡くまるで天から舞い降りた仙女のようだと曹操は例えていた。おそらく今は亡きの母も同じだったのだろう。

「夏侯惇将軍、殿がお呼びでございます」
「孟徳が?」
渋い顔をしながら言葉を返す。宴席で呼び付けられる内容は(夏侯惇にとっては)どうでもいい事が多いからだ。
「…分かった。直ぐ行く…、お前はもうそろそろ休んだ方がいいぞ。孟徳には俺から言っておく」
「分かりました、おじ上」
部屋まで送らせようと夏侯惇は女官を探したが、は一人で大丈夫だから、と止めた。
自室へ戻るの後姿を心配そうに見送る夏侯惇であったが、ひとまず曹操の元へと急いだ。

張遼が空を見上げると見事な満月だった。
宴の中、酔いを醒まそうと庭を眺めていた。時折吹く夜風は心地よく、緩やかに酔いを醒ましてゆく。
空を見上げたまま、想いを馳せるのはただ一人…

曹操の側室の娘で母譲りの髪と瞳の色、穏やかな立振る舞いは健気に咲く花のように見る者の心を和ませる。

…殿…」

微かな風ですら消えてしまう声で名を囁く。
には父である曹操を始め、兄の曹丕、夏侯惇、夏侯淵、曹仁などが近付く輩を護衛よろしく目を光らせている。そんな事もあって武将ですら容易に近づけない。
それでも胸に秘めてしまったこの想いは…

「張遼様?」
不意に声をかけられ振り返ると…今、まさに自分の心を占めていた、の姿があった。
「これは殿…お一人とはいかがされました?」
宴の日には、の傍には必ず誰かが付いているからだ。

「つい先程までおじ上がいたのですが…父上に呼ばれて。私はもう休んだ方がいいと言われまして、部屋へ戻る途中なのです」
「そう…ですか…では、私がお送りいたしますかな」
「でも張遼様…宴の席を空けてしまっては…」
「実のところ、月が見事で丁度酔い覚ましに庭に出たところですので」
「私も月を見ておりました。本当に…綺麗で…」
二人で同時に空を見上げる。月は変わらず見事な姿で空に座し、白い光を地上へと放っていた。

「…っくしゅん」
が小さなくしゃみをする。夜風に当たりすぎたかとが思ったと同時にふわりとその肩を暖かい物が覆った。
「そのままでは風邪を召されますぞ、殿。一時しのぎですがこれを羽織っていてくだされ」
それは張遼の上着で…はしばし呆気にとられていたが、頬を染めた。
「で、でもこれでは張遼様が…」
「心配には及びませぬ、将たる者このくらいで体調は崩しませぬよ」
を安心させるように張遼は優しく微笑んだ。
その言葉と笑顔に安堵したも大きな上着を羽織ったまま恥ずかしげに微笑んだ。

月の光を受けながら二人でゆっくりと、和やかに話し、時折立ち止まりながら歩いた。
この時間が少しでも長く続くようにと…
だがその願いも虚しく後宮まで最期の角、という所まで辿り着いてしまった。
「ここで宜しいです、張遼様。上着まで貸していただいて有難う御座います」
後宮の入口の護衛に姿を見られては張遼の身が危ういかも知れない。
「お気になさらずに、殿」

が羽織っていた張遼の上着を返すため自分の肩から外す。
それを受け取ろうとした張遼と渡そうとしていたの、二人の手が…触れた。
その瞬間、張遼の手がの手を柔らかく握った。
驚いたが張遼を見上げる。そっと…張遼の唇がの額に触れた。


「良い夢が見られるまじないです…たとえ悪い夢でも私が救いに参りましょう」
顔から火を噴いたように真っ赤な顔のへ張遼は悪戯気味に、尚且つ優しく微笑んだ。


を見送り、張遼は再び宴席に戻る為に一人廊下を歩いた。
先程の『まじない』は咄嗟の思い付きだったが、はそれを受け入れてくれた。
ただ驚いていただけかもしれないが…張遼にとってはそれでだけも充分だった。
あの愛らしく健気に咲く花に完全に囚われてしまったかと、今更ながら張遼は口元を綻ばせた。






― 劇終 ―




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