「お前の武、面白そうだ。俺達と来ないか?」
対峙した直後の敵将にかける言葉とは思えない。しかも満面の笑顔で。太史慈が困惑するのも無理のない展開だった。
味方の大将が太史慈に軍を押し付けるようにして逃走した直後、敵の大将・孫策が単独で目の前に現れた。普段なら好機とばかりに討ち取るだけなのだが、その思考すら吹き飛ぶほどに奇妙な展開だったのだ。
「なんとも型破りな御方だ…」
やっとの事で口から出たのはこんな一言だった。
「そ、孫策様―っ!」
必死の形相で駆け込んできたのは敵の武将だった。長い黒髪を首の後ろで一つに纏め、剣を手に孫策の元に辿り着いた。太史慈の軍にはいない女武将の姿は周りの兵士の視線を一身に集める。どれほど走ってきたのか息は切れ、その顔も真っ赤で汗だくだった。
「た…」
必死に何かを言いたいのが分るのだが息が付けないので一言だけしか出てこない。
「何だ?、どうした?」
と呼んだ武将を覗き込み不思議そうに尋ねる孫策。そんな孫策の襟元をがしっかりと握って大きく息を吸い込んだ。
「単身で敵陣に突っ込むなど、大将としての自覚がお有りか!!」
その余りの勢いに孫策だけでなく太史慈と周りの将兵一同の動きが止まる。中には姿勢を正して直立不動になる兵士までいた。
「いやぁ、悪い悪い。つい、勢いで」
悪びれもせずに孫策は頭を掻いている。再びは息を吸った。
「これは戦で鍛錬ではない!ご自分の命を何とお考えだ!万が一、孫策様の御身に何かがあったら殿や孫権様や尚香様や大喬様や周瑜様に私や兵士達は何とお詫びをすればいい!」
一気に捲くし立てると孫策を睨みつける。よほど怒っていたのだろう。普通なら主君の血筋の者に此処まで荒々しい進言をしたとなれば相手によっては即、処断である。
「…悪かった、」
少し懲りたのか孫策はに詫びた。そんな孫策の姿には襟元から手を放し、膝を折った。
「暴言と無礼な振る舞い、この場はお許しください。この戦が終わりましたら、いかなる処罰もお受け致します」
「まぁ、気にするな。これは俺の方が悪いんだからな」
おおらかで真直ぐな孫策の笑みだった。
太史慈は呆気にとられて二人のやりとりを見ていながらも孫策の度量に感心した。敵陣のど真ん中で叱り飛ばされるなど、大将として決して格好のいいものではない。
それを受け止め、自分の非を認めたのだ。
(成る程、面白い御方だ)
自然と口元が緩んだ。そんな太史慈の表情に気付いた孫策が嬉しそうに再び自分達の下へ降れと再び誘いをかけた。その言葉に孫策の前で膝を折っていたがこちらを見た。太史慈はその時、初めての顔をまともに見た。
駆け付けた際には真っ赤だった顔色も少し熱が引いたようだ。しかし、頬は未だに淡い桃花のような色を残していた。自分を真直ぐに見つめる黒く大きな瞳。一心不乱に孫策の元に駆け付けた為、乱れはあるものの絹のような艶の長い黒髪。そして、君主であろうと間違いを正す為に力強く進言する真摯な心。
太史慈にとっては全てが衝撃であった。
「では…言葉よりも、まずはこれで語り合おう」
双鞭を構える太史慈に孫策はこの上なく嬉しそうに自分も武器を構えて対峙した。
あれから何年だろう。ふと、あの頃の空に似ていると太史慈は流れる雲と風に思いを馳せた。孫策の将器を認めた太史慈は、敗走して散り散りになった部下の将兵を集めて孫策の下に参じた。もう戻らないのでは、との噂もあったと後に聞いたが孫策は自分を信じて待っていたという。逃走した元大将と策の器は比べるまでもなかった。孫策を選んだのは間違いなかったと自分の選択に誇りが持てた。そして、あの時…孫策に声を張り上げて進言したとの再会も果たした。あの時は孫策の護衛としての任を負っていたと聞き、あれほど怒ったに納得したのと同時に、さぞかし苦労したのだろうと同情もした。
「太史慈殿、よろしいか?」
呂蒙が入り口に立っていた。その後ろに控える様にが立っている。
「構わない、何か御用か?」
「孫策殿が手合わせをしたいと手の空いている者達を集めておられるのだが、貴公はいかがか?」
周瑜の絶対的な監視下で溜まった書簡を片付けていた反動だろう。孫策のそんな心情が手に取るように分ると太史慈は苦笑して了承した。
「では、鍛錬場へ。俺と陸遜はもう一人の監視があるから、後で行こう」
呂蒙が溜息をつくと、その後ろでが苦い笑みを浮かべる。恐らくの上官・甘寧の事だと太史慈は直感した。普段はが監視の役を果たしているのだが、我慢の限界を超えると呂蒙と陸遜に託す事があった。この二人の監視は甘寧にとって一遍の隙も温情も無いのでの有難みを思い知る仕置きの一つであった。
詫びるに呂蒙は、気にするなと笑いかけて肩に手を置く。その笑みはであるからこそ向けられる柔らかい笑みであるのだが、当人達は全く気付いていなかった。
「太史慈殿?参りましょうか」
覗き込むようにが尋ねると太史慈は我に返った。
「あ、ああ済まない。では参ろうか殿」
「ぼんやりしていた様ですが、お体の具合でも?」
「いや、そうでは無い…少し、昔の事を思い出していた」
首を傾げるに向かって太史慈は微笑んだ。
「孫策殿と初めてお会いした時の事だ」
その時の事を話すとは恥ずかしそうに頬を染める。敵陣の真ん中で自軍の大将を叱る護衛など前代未聞であるから無理もない。
「あ、あの時は必死だったもので…お見苦しい所を…」
「いや、殿があれほど怒った理由は、それだけ孫策殿が大切な主君であるという事の証であろう」
太史慈の言葉にが頷いた。
「そうなのです…けれど、あの時の孫策様といったら…」
孫策の下に参じた後にと話す機会のあった太史慈は、あの時のの苦労を聞いて開いた口が塞がらなかった。
戦が始まり、童襲や水賊の援軍も加わり孫策の軍は勢いを増した。その中で孫権が孤立し伏兵に囲まれる危うい場面もあったが、周泰がそれを救った。そんな戦況を知っていながら、大将である孫策は護衛の将が呼び止めるのも聞かずに敵本陣へ単身乗り込むという偉業を成してくれたのだ。これを怒らずにいられようか。
「まったく、あの時は…」
いまでもあの苦労が忘れられないが溜息と共に眉間に皺を寄せる。追いつけなかったから、大将が討たれたとあっては何の為の護衛か。孫呉の将となり、その苦労は太史慈も味わう事となった。それでもどこか憎めないのが孫策であった。
「しかし、しおらしくて思慮深い孫策殿など見たくはありませんがね」
太史慈がそう言うとは目を見開いて…一瞬の沈黙の後、噴出した。
「そ、それもそうですね」
は余程可笑しかったのか笑いが止まらない。鍛錬場へ歩きながら堪えようとするが、込み上げてくる笑いが止まらず必死に抵抗していた。太史慈は、そんなの様子に悪い事をしてしまったかと思いながら、彼女の新たな一面を見られた事に胸が一つ大きな音を立てる。
主君の身を案じ、女でありながら単身で敵陣へと駆け付ける忠心。
敵を討つ武の冴え、他者に見せる配慮、凛とした振る舞いの中に時折見せる柔らかさ。
あの戦で、忠は孫策に心はに討たれたのだと太史慈は考えていた。だが、が想いを寄せている呂蒙の存在を知った。呂蒙もまた、を想っている事も知る。外野ばかりが気付く二人の想いは陰で嘆く者達の数を密かに増やしていた。
太史慈は行き場の無い想いを武へと変え、孫呉の為に双鞭を振るうと心に誓った。不毛な結論であるが、と共に戦場を駆ける事を太史慈は選んだ。
程なくして、ようやく互いの気持ちを認識し合ったのか呂蒙とが共に居る事が自然に見受けられるようになった。それに嘆く者もいたが、相手が呂蒙では付け入る隙が見つけ辛いのか大きな混乱はなかった…あくまでも表面上ではあるが。
鍛錬場に着く頃に落ち着いたも孫策の顔を見た途端、笑いがぶり返した。そんなを孫策から庇いながら太史慈は上手い言い訳を探してかなりの苦労を必要としたのだった。
― 劇終 ―
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