「ほっ」

木々を伝い、飛びすさぶ女が一人。
枝と枝との間をすり抜け飛びゆく足取りは軽く、着物の裾は翻える。
すたり、足を落ち着かせた枝の上にて辺りを見渡した。

「おっ……いたいた!」

目当てにしていたとある人物を見つけた途端にっと笑みを浮かべ、
もう一枝、二枝と軽快に木々を伝う。
抜け出た先には背を見せ歩む一人の女。
その背の後ろへと意気揚々と飛び下りた。

「蓮!」

「うわあっ!!」

振り向き、驚いた顔を見せるその蓮という女。
飛び下りた女、は驚かせようとしていたのだから、と言わんばかりに
にっと笑みを浮かべたままに着地しようとしたのだが。

「……っやば……」

ふと浴びた蓮ではないその視線。交わしたそれに、浮かべていたいたずらっぽい笑みは
強張り、は小さく漏らしつつ着地する。

「三成様、左近様」

方膝を突き、頭を垂れる
そこに向かう三つの視線。
未だ驚いたままの蓮。
目を丸くした左近。
そして表情も変えずちらりと視線をくれる三成だった。

じゃないか。戻ったのか?」

「はい、今朝に」

「まあ、顔を上げな。その方が殿も……殿?」

左近の許しを得てちらりと上げた顔。
然しその殿はそのまま背を見せてしまい、左近の声が慌てたように追いかけた。

「ご苦労であった」

ちらり、振り向いた目。
そのまま行ってしまった三成をはふう、と息をつき見送ろうとしたが。

「殿は久し振りだから照れてるだけで……ああ、はいはい、左近も参りますよ」

ふっと笑った左近がにこっそりと言おうとしたそれは
数歩先を行く三成に丸聞こえだった様で、横目に振り向いた三成の眉が寄せられた。
最も左近も聞こえるように口にしたのだろう。
に気にするな、という意味を込めて手を上げれば、
三成の背を追い歩んでいく。
は立ち上がり、その二つの背をやれやれといった風に見送るも。

「はあ……びびった……」

はあ、と息を吐き出し気の抜けたような口振り。
そんなにその場で目を丸くしていた蓮がじっと恨めしそうに睨む。

「なーにがびびったよ! ていうかお帰り!」

「うわあっ……ただいまただいま!」

飛びつかれ、は体勢を崩しそうになりつつも二人はじゃれあう。
くノ一である二人は幾年も豊臣家に仕えている。
年頃も同じく割と気の合う性分である二人は平穏時ともなればここぞとばかりに
年相応の女友達の会話を楽しむ。
そして斥候の為出向いていたが戻ったのが今朝の事。
蓮を驚かせようと派手に木の上から登場しようとした
その悪戯心がそもそもの間違いだった。

「おねね様には?」

「もちろん、報告完了」

「じゃあくつろぎましょ。蜜柑でも食べて……って、あっそうか」

「なに?」

を独占して三成様に怒られたら嫌だわねえ」

にやり、笑う蓮にはどきっとしてしまう。

「独占って……忙しそうだったから……まあ、いいんじゃない?」

「……目が泳いでるわ、あんた」

三成様のことを"まあいいんじゃない"とは何事か、と蓮は更にからかう。

「全く、それにしてもさっきの登場はなんなの? いつものこととはいえ、
三成様も呆れ顔……」

「あー!! 言わないで!! まさかすぐ傍におられるとは思わなかったんだから!」

「丁度お顔を合わせて……ご挨拶させて頂いたところだったのよ。
それなのにあんたときたら」

「大丈夫、大丈夫な筈だって! さあ蜜柑食べよう!」

その目はやはり泳いでいる。
呆れ顔の蓮と何故か焦るは二人、蜜柑を目当てにその場を後にしたのだった。


「殿……殿?」

「聞こえている」


筆は置いたが目は机上に向けられたまま。
そんな三成に左近はふと笑みを浮かべる。

「後は左近におまかせして下さっても宜しいんですがね」

何を言うか──そんな目で睨まれて左近は肩をすくめた。

先程からしかめっ面を机上の書物に向けているその殿。
けれども左近はそのしかめっ面の理由を知っていた。
いや、理解するに容易いともいえただろう。
それは正午前あたりか。北条の支城での斥候、そこから戻ったの顔を見たのは。
所々につぎはぎの見える薄手の着物の裾を翻し、意気揚々と上方から下り立った
奔放な立ち振る舞い。
三成にそれを見られてしまったと首をすくめるその様。
そしてこの三成は久方ぶりに顔を合わせたその女に、型通りの労いの言葉を
一つ口にしただけ。

といえば常日頃から奔放な立ち振る舞いが目立つくノ一で、今日のような
出来事も度々あった。
しかし特別に無礼を働くことは有り得なかったし、三成もそれ位は
さして気することではなかっただろう。
けれどその奔放さが災いし、は度々三成に小言を言われていたのだ。

やれ衿をはだけさせるな、しっかり合わせろ、だらしない、とか。
裾を翻すな、はしたない、とか。

三成がそんなことを一々気に留めるとはもしや、と左近は笑いを噛み殺して
その様子を見ていたこともあった。

で都合悪そうに頭を下げながらも、その奔放さはなかなか抜けるものでもなく、
三成と顔を合わせる度に参ったな、という表情をしていた。

それがまた三成の不興をかい、三成のそれがまたを萎縮させていた。
はどうだか知らないが、自分の殿にとってそれは悪循環だろう、と
左近はやれやれといった風に傍から眺めていたものだった。

一人のくノ一にあれやこれやと小言を言い、足をはだけさせて城内を走ろうものなら
何ともいえない不興顔で視線をくれる三成。

左近は一度だけ口にしたことがあった。そこまで目の敵にしなくても、と。

──敵になどしていない。

予想通りの答えが返ってきた。
今度は違う風に問うてみた。
そんなに気になるんだったら忍びなどやめさせて傍に置いたらいかがですか、と。
冗談まじりだったその問い。
それに返ってきたのは、はっとして、目を合わせた三成の表情。
それに一歩遅れた”くだらん”という言葉。
その時の三成の表情に垣間見えた動揺の色。
ああそういうことですか、なんて口にしても否定しない三成。
三成の心の中ではいつの間にそんなことになっていたのか。
左近は不器用なその恋心を見守ろうか、なんて呑気に考えていたのだけれど。

然し本当に不器用なのか意地を張っているだけなのか。に対する三成の態度は
常に変わらず相変わらずの小言、横睨み。

一々走るな、騒々しい、とか
駆ける様を見ては牛のようだな、とか。
兵卒達とあれやこれやと話し込んでいる所に通りかかれば
そんなに声がでかいと戦での伝令もいらんな、とか。

嫌味まで口に出す始末で、いつも参ったな、と都合悪そうに首をすくめるだけの
もいつしか覇気のない表情を浮かべるようになってしまった。
このままでは上手くいくものもいかなくなると、左近が心配し始めた頃だった。

三成は偵察より戻ったばかりのに”そのみすぼらしいなりは何だ”
とまで口にしたのだ。

忍びが斥候に出向いたなら変装、身分の偽り、それは極普通のこと。
汚くみすぼらしく装い、地元民になりすまし、耽々と情報を持ち帰る。
地元の農民にでもなりすますのが一番都合がよいのだ。
帰還したとて主の面前に立つのに彼らは装いを改めはしない。
それよりも伝えることを、任を果たすことを何より速くと、それを重んじているからだ。
敵方の状況、地形、地元民の心の動き。それらをいち早く報告すべきなのだ。
だから主もそのなりを咎めたりはしない。
三成はそれを充分に解している筈だった。

それなのに、情報を持ち帰った忍びに対して──に対して三成が口にした言葉。

そのみすぼらしいなりは何だ、と。

その見下すような視線、血の通わない冷たい口調。

他人のことなど気に留めない三成。
然しながら心底冷徹な人物ではない、人の心の機微も掌握している筈だ──
その旗印の様に。
それなのに何故、と左近は疑問を浮かべ、そして驚かされた。

三成がを咎めたこともそうだったが、何より驚いたのは
が三成の頬を叩いてしまったことだった。

一人の忍びのそんな振る舞いが許される筈はない。
けれど、ねねのたしなめによりどうにか収められたその場。
三成は逆にねねにお叱りを受けることとなってしまった。
勿論も存分にお説教をされ、牢に繋がれること一月。
然しその一月の間に何があったのか。

三成がに対して小言を口にすることは少なくなり、
顔を合わせてもその奔放さを目の当たりにすれば横目で睨むだけ。
そして度々と二人、縁側に腰を下ろし話していたり、
が三成の室を訪れたりということもある様だった。

その変化に左近はどうしたものかと首を傾げていた。
二人の間に何があったかは知らないが以前よりは近付いた風な二人、三成の恋心は
よい方に向かっていると見えて、左近は微笑ましく見守っていたのだ。

けれど今日も今日とて三成はそっけない口振り。
と久方ぶりに顔を合わせたというのに。
三成がの帰りを今か今かと待ち侘びていたことを左近は知っていた。
然しながらまあ、それを認めるような性分ではない。

今も今とて三成の室を訪れてみれば時折止まるその手。
だから後は左近にまかせてくださっても、と口にしたのだ。

「無事に戻ってよかったじゃないですか」

「誰のことだ」

斥候より戻ったのことですよ、なんて意地悪く言うこともはばかられて
左近は苦笑いだ。

「今頃おねね様の蜜柑でもつまんでくつろいでるんじゃないですか?
先程蓮が頂いたと言っていましたから」

「呑気なものだな」

「斥候は身体共に疲れるもんですよ」

またぴたりと止められた三成の手。
そんな当たり前のことなど、とでも口にするかと思えば。

「……わかっている」

「次はいつ偵察に向かうのか判りませんが……まあすぐでしょうな」

「何が言いたい」

ちらり、横目で睨む三成に左近はまた苦笑いを浮かべた。

「乱世で張る意地は戦と政だけで充分かと」

「俺はつまらん意地など張った覚えはないがな」

「ま、つまらなくもない意地なんでしょうがね」

意地を張ったことは否定しないのかと揚げ足をとるかのような左近の発言。
戦も政も個人の意地など張ってはまかり通らないのだが、個人的な部分ではどうか。
今日の友を明日には失ってしまうかもしれない。愛する家族を蹂躙されるかもしれない。
何が起こるかわからない、戦国の世。
そんな乱世につまらぬ意地など張っていても仕方ない。
まあ、三成は少々怒っているだけなのだと、そう思い浮かべた苦笑い。
然し左近のそれが驚きに変わった。

「夜には顔を見にいく」

「それが宜しいでしょうな」

左近はまた横目で睨まれてしまったのだった。








「うんー美味しい」

「甘いわよね、おねね様に感謝しなくちゃ」

「後でお礼を……っぐ……」

「慌てて食べない」

縁側に腰を下ろし蜜柑をつまむと蓮。
もぐもぐと口にするのはいいが、は喉に詰まりそうになり慌てて胸をぽんぽんと叩く。
美味しさ故夢中になっているのだろうが、その意識は何かを忘れたくて
必死に蜜柑に向けられている様にも見える。

「っはー苦しかった!」

「三成様がいらっしゃったらまたお小言かもね」

それを思い出したくなかったのだ、という風にじっと恨めしそうな視線をくれる。
そんなに蓮ははあ、と息をつく。

「三成様今頃怒ってらしたりして」

「あー! それを言わないで!」

「左近様もいらしたのに……また貧相な足を見せるな、とか言われるかもね?」

「うう、帰って早々……」

「焼きもち焼かれるだけいいじゃない、羨ましい」

「うーん……」

他の将や兵卒と話したり、足が見えてしまうこともお構いなく駆けたり。
三成が不機嫌になる為、も気をつけてはいるのだ。
けれどそれが嫉妬からくるものだと知ったのはいつからだったろうか。
三成は一度だけ口にしたことがある。
それはが三成に手をあげてしまってから、牢でのこと。

「済まなかった」

牢に訪れ、またしても見下すような視線をくれる三成には憤りを
隠せないままに歯を噛み締めた。
けれど三成のその言葉に耳を疑ったのだ、まさかこの人が自分のような者に
そんなことを言うとは、と。

「こちらこそ申し訳ありませ……」

深く下げたの頭は簡単に上げられた。

「おまえは気に食わないのだ、なぜか」

三成のその言葉に目が揺らぐ。
どうしてここまで、とは顔を歪めたが。

「おまえが裾を翻して歩けば気に障る。おまえが他の男と話していると
気に食わない、何故かはわからんが」

「あの……」

「そういうことらしい。認めたくはないが」

──そういうことって……

は判らないままに三成を見詰めたが。

「心無いことを言った。どうでもよいことだったが」

どうでもよいとはこれまたどういうことか──は伺う様な目を向けたけれど。

「おまえには理解して貰いたいのだ」

それだけだ、と付け足す三成にはどう捉えていいやら判らず。

それより毎日のように牢を訪れた三成。
言葉は少なく、優しいそれなんて更になかったけれど
よく判らないその行動も、時折ふっと見せる笑みも
判らずとも遠からぬその答えをはいつしか期待してしまっていた。

心の底の感情を時折垣間見せる三成。

少ない言葉の端から徐々に理解していった彼の人となり。

それは決して嫌悪するものではなく、いつしか惹かれている自分に気付いた。

その後歩み寄り、多少なりとも受け入れ、受け入れられた己にはいつしか
心が満たされたり、戸惑ったり。
その原因は忙しい彼の立場により中々会話することもままならないことも多少あったが、
何より彼本来の忌憚のない口振り、そして何より焼きもちや嫉妬と呼ばれるそれだった。

今日のように木から飛び下り着物の裾から足が見えていたり、
それを他の男性に見られてしまった日にはそれなりに不機嫌な三成。
大抵そんな日には嫌味や冷たい視線をくれるのに、夜には必ずといっていい程
顔を見せる。そして離してはくれない。

いつしか三成に惹かれていたにとっては嬉しくもあり、惑うところでもあった。
傍にいられることは嬉しいけれど蓮の言った通り三成が怒っていることも多々あるからだ。

だからつい溜め息がでてしまう。


「また怒られる……三成様に」

「じゃあそのじゃじゃ馬はやく直しなさい」

「簡単に言うけど、気持ちが先走るとどうにも……」

「あんたくノ一でしょうが」

「平時には普段の反動が出ちゃうっていうか……」

「それは判るけど……まあ、怒るだけあんたのこと気にしてるんでしょう、三成様は。
さっさと絞られておいで」

蓮は呆れた風に蜜柑の残りを口に入れ、は重い腰を上げる。

「……じゃあ行ってきます」

「ご武運を」

「うるさい!」

きっと睨むも蓮はあっけらかんと笑って手を振っている。
はたっと駆け、三成の室へと向かったのだった。








「三成様、にございます」

「入れ」

許しを得、襖を開ければ机上に向かったままの三成が。
やはりまだ忙しいかとは距離を保ったままその場にて頭を下げた。

「先程は失礼致しました」

何も返ってはこない。がちらりと目線を上げて伺えば顔を上げろと言われ
こちらに目を向けない三成を座したまま待つ。
そして三成は一段落ついたところで視線をくれるのだ、それはいつもの静かな時間。
とりあえずそれ程怒ってはいないようだと幾分か安心した
視線をくれた三成に笑みを向けた。

「三成様、お元気そうでなによりです」

「見ればわかることだ」

こういう物言いは常日頃からなのだが、やはり少し機嫌が悪いのだろうか。
が首をすくめれば、三成の眉が僅かに寄せられた。

「先程のあれはなんだ」

「あれ……ですか」

は何のことかと惚けようかなんて考えが浮かんですぐさま消去した。
だいたいこういう時の三成はいつにも増して不機嫌そうであったし
その不機嫌の理由もいつも言われていることだったからだ。

「蓮を驚かそうと思いまして……」

「餓鬼のようだな」

「っ……まさかお傍にいらっしゃるとは思いませんで……」

「薄手の着物で、はしたないものだな」

「あれは農民の娘とか、そういう格好でですね……」

「ふん、相変わらずみすぼらしい格好だった」

「では、は二度と三成様の前に姿を現しません」

三成がぴくりと眉を上げると、が丁寧に頭を垂れていた。

「失礼致しました」

さっと襖を開け、下がってしまった

──そんな訳にもいくまい。

三成はその言葉でどうにか己を納得させて、再び机上に向き合った。



三成の考え通り、明朝二人は早速顔を合わせてしまった。
それはたまたますれ違っただけなのだが。
型通りの挨拶、そつなくその場を後にするそぶり。
三成はの後姿をつい目で追ってしまった。
城内で顔を合わせぬことなど無理な話だと判っていた。
はねねの隊に属していたし、軍儀後ともなれば兵卒達と共に待機しているだろう
その姿を目にすることは容易だった。
然しながら、能面のようなその顔で型通りの挨拶をされることも癪だった。

「おや、怒らせちゃったんですか」

はっとして振り向けば、そこには左近が。
見られたくない奴に見られてしまったと三成は心中穏やかではない。

「あれが勝手に……いや、なんでもない」

が一人で怒ってるんですか。殿も随分苦い顔をされていましたが」

左近は人の悪い笑みを浮かべる。

「そういえば、昨夜は殿も酒を?」

「なんのことだ」

「いえ、先程が昨夜は賑やかに呑んだと言っていたので……殿のご機嫌も
宜しいかと思ったんですがね」

昨夜は結局の顔を見に行かなかった三成。
昼間のの発言が尾を引いていたのだ。
顔を合わせぬことなど無理に等しい話しだし、子供じみたことを口にした
呆れ半分といった所だった。
然しながらその原因を作ってしまったのは自分の言葉。

『ふん、相変わらずみすぼらしい格好だった』

二度と口にするまいと決めていたというのに、つい悪態をついてしまった。
それもこれもがはしたない様を見せて歩くからだと言い聞かせ
どうにか納得しようとする自分もまた子供じみているのだろうか。
そんなことをつい考えてしまって三成は昨夜、あまり寝付けなかった。

「酒など嗜む暇はない。あれも呑気なものだ」

苦い顔をする三成。然し本人は至って平静にしているつもりなのだろう。
そんな三成に左近はああ、やっぱり怒らせたんですね、とはとても言えなかったが。

「然しが怒るとは珍しい。殿も早めに謝った方がいいでしょうな」

関係あるか、という不興顔を向けられ左近は苦笑いを浮かべる。

「乱世で張る意地は戦と政だけで充分ですよ」

「……昨日も聞いたがな」

「女が怒ったらとりあえずは謝った方が宜しいかと」

「左近、おまえはそういう奴か」

「殿には理解し難いでしょうな」

「全くもって理解できんな」

歩みつつ会話を交わす二人。
三成は涼しい顔を浮かべていて、左近はふう、と息をついたのだった。




「どう? 昨夜のやけ酒は抜けた?」

「ええっ……やけじゃないよ! 二日酔いになる程呑んでないし……」

クナイ片手に振り向けば苦笑いを浮かべている蓮がいて、はむう、と
口を尖らせた。
そのまま腰を下ろす蓮に続き、も気の抜けたように腰を下ろした。
覇気のないの様子を蓮はただ心配そうに見やる。

「二度と姿を現しませんなんて……どうしてそんな事言っちゃったのよ」

「……ついかっとなって。三成様もあんな冷たく言わなくてもいいのに。
いつかの事思い出しちゃって」

いつかの事、は怒りのままに三成に平手打ちをくらわせた。
そのことだと否応なしにわかり、蓮は一時目を伏せた。

「ああ、あんたよく斬られなかったわよね。おねね様に感謝しなくちゃ」

命を賭して情報を持ち帰ること、影に徹し己を殺し、任を遂行すること。
表舞台に立ち、華々しく武功を重ねる将達の影に潜む、それが忍び。
下賎の者だと見下されることも多々ある。
所詮流れ者だと相手にすらされないこともある。
それでも家臣として戦に立つことが出来るのも、こうして城内で素性を隠さず
己を表に出し、蓮や他の家臣達と笑い話し合えるのも。
全ては忍びとして功をなし、妻として秀吉の傍らで笑顔を絶やさぬねねの力が大きかった。
だから蓮もも他の忍び達も皆ねねを尊敬し、慕っていた。
ねねは忍びであることに誇りを持たせてくれたから。
その誇りを汚された──そう思い至ったあの時、
切腹とか斬首だとか、そんな事は頭から消え失せた。
結果したことは石田三成に平手打ちという無謀な振る舞いだった。

「おねね様には感謝してもしきれない……でも、幾ら怒ってるからって三成様も……
またあんなこと言うなんて!」

「昨日はあんたが怒らせたんでしょう」

それはそうなんだと、うう、と唸るに蓮は”まあ、どっちもどっちだけど”
とは口にできず。

「早めに謝ったほうがいいんじゃない?」

「あんな風に言われても?」

「三成様だってつい憎まれ口をたたいてしまったんじゃない?
難しい方だから……それもこれもあんたが左近様の前で貧相な足全開にして
登場するからよ」

「うう……気をつけてはいます、はい」

縮こまるに蓮は呆れた風に息をつく。
奔放だとかじゃじゃ馬だとか言われることが多い
しっかりものの蓮にこうやって窘められることも少なくないのだ。

「単なる嫉妬でしょう、あんなの。が目立つ行動するのが許せないだけよ」

「あんなのって……蓮も言うなあ……それに三成様のことわかってるって感じだし」

のその言葉に蓮は心底呆れてしまったようで。

「あのねえ……傍から見てりゃ嫌でもわかるの! ほんとわかり易いんだから! 
いいからさっさと謝るなりなんなりしなさい! 戦まではまだ日があるけど
いつ状況が変わるかわからないんだからね!」

蓮に飛ばされた檄には一時逡巡した様だったが顔を上げ、こくりと頷く。

「女だからって遠慮することないわよ。戦の功も男も欲しいものは手に入れたら
離しちゃ駄目。あたし達はねね隊のくノ一なんだから」

は今一度頷く。
こんな戦国の世だからこそ、体に沁みついている言葉。
後悔しないよう生きたい。
怒りにまかせて言ってしまった、もう二度と姿を現さないという言葉。
けれど明日にも死地に赴くとしたら、最後の夜を共にしたいと願うのは
やはり石田三成という人だったから。

「行ってくる」

立ち上がり、駆けようとしたの後方から蓮の声が響いた。

「また三成様を叩いたら駄目よ?」

「しないよ! もう!」

叫び、駆けていった
蓮はその友の背を見送り、やれやれといった風に息を漏らしたのだった。





「三成様、にございます」

平常心を装い、いつもの様に声を発したつもりだった。
けれど中からは何も反応がない。
気配はするのにおかしい。まだ早いがもう休んでしまわれたか、とが思い至った時。

「二度と姿を見せぬと耳にしたのは間違いだったか」

がらりと開けられた襖。三成はそこに立ち、を見下ろしていた。

「申し訳ありません。かっとなってしまって……でも」

「入れ」

三成の言葉に遮られ、が頭を上げれば彼は背を見せ奥に座してしまった。
は言われるままに襖を閉めて、また膝を折る。

「三成様……お酒を?」

「見たままだな」

どうやら一人で酒を呑んでいたらしき三成。
今は要約西日が差し込んでくるかというところでこんな早くから、と
は目を丸くする。

「食事はお摂りになられましたか? 腹になにか入れてからの方が宜しいかと」

「余計な世話だ」

酒の肴など見当たらず、が心配顔を向けたがあっさりとかわされてしまった。
まだ時間も早い。やはり食事など摂っていないのだろうとは立ち上がる。

「お持ちしますので……あの、三成様?」

食事を用意しようと開けた襖は半分も開かぬうちに後ろからの手にぴしゃりと
閉じられてしまった。
三成は見上げるを一瞥してまた座り込み、酒に口をつける。
どうしたものかと思ったが一先ずは謝らなければと、はまた頭を下げた。

「昨日は申し訳ありませんでした。あんな口をきいてしまって……」

「その割には呑気に酒を呑んでいたそうだな」

「っ……左近様でございますか」

今朝、ふああとあくびをしている所を左近に見られてしまった
いつか褒美にとねねに頂戴した酒があった。
昨夜は遅くまで蓮とそれを呑んでいたと話したのだ。

「よくもまあ楽しくやれるものだ。俺の気など知らずに」

楽しくとは言っても、昨夜”三成様は冷たい”などと散散
愚痴を零してしまったことを思い出し、は首をすくめた。
けれどはて、と首を傾げる。

『俺の気など知らずに』

そんなことを口にするお人だったか。そう思ったのだ。

「三成様、お酔いになられてますか」

「酔ってなどいない」

簡潔な答えには心配しつつも酌をしようと銚子を手にした。
けれど今し方三成が口をつけていた酒杯を差し出される。

「有り難く……」

両手で酒杯を受け取ると三成に酌をされ、は戸惑いつつも口をつけた。

「おまえはいつまで経っても他人行儀だな」

「えっ……」

「俺とこうしていても身分をわきまえた振る舞いしか見せない。
だが日頃は奔放に駆けずりまわり、他の者にも明るい顔を見せる。
おまえはそういう女だと理解してはいるが……俺はそれがどうにも腹立たしい。
昨日のことは……済まなかったと思っているが」

詫びの言葉にはこちらこそ、と深く頭を下げる。
然しその前の部分はどう捉えていいものかわからなく、ただ惑うばかり。

「何故……腹が立つのですか」

「わからん奴だ」

「っ……奔放な振る舞いは、気をつけてはいるのです」

「その結果が昨日のあれか」

「申し訳ありません……」

また貧相な足を出すなだとか、どこぞのじゃじゃ馬だとか。
そういったお小言が繰り出されるのだろうとは身を縮込ませた。

「おまえが目立つ振る舞いをする度、腹は立つが」

空になった酒杯を再び三成に差し出そうとしたの手がぴたりと止まった。

「そういう女に惚れたのだ。仕方あるまい」

真っ直ぐな視線にはぴたりと時が止められたように動けない。
これ程はっきりとその気持ちを聞いたのは初めてのことだったからだ。
そして思い返したのは蓮の言葉。

『単なる嫉妬でしょう、あんなの。が目立つ行動するのが許せないだけよ』

そして傍から見ればそれは嫌という程わかり易いと言っていたことも。

「三成様は」

三成が差し出された酒杯から目を離せば、そこにはくすりと笑みを浮かべているが。

「焼きもち焼きですよね」

三成は酌をされてもそちらに意識が向かない。
怪訝そうにを見やる。

「何がおかしい」

「いえ……嬉しいんです、何故か」

「何故かとはどういうことだ」

「ご機嫌が悪い三成様はお小言や嫌味が多くて……大分少なくはなりましたけど、
時々傷つきます」

三成がぐっと酒を煽るも、銚子を傾けるに目をやればその顔は優しげに笑んでいる。

「けど、それ程愛されてるというのも……心地よいものです」

「心地よい?」

「ええ、だから三成様のお傍にいたいんです」

にこりと笑う顔から一時目を離し、また三成はくっと酒を煽った。

「勝手にしろ」

「三成様、頬が少し赤いです。照れてますか」

勝手にしろだなんて悪態をついてしまったと、後悔する間もなく
三成が見せたのは動揺の色と、赤みが差した頬。

「照れる? 先程からなんなのだ、おまえは」

「三成様が他人行儀は嫌だと先程仰いましたから……少し砕けた言い方を
するよう心がけたのですが」

「俺がいつそのようなことを……」

嫌だとまでは言っていない筈だ、と眉を寄せるも。
ふと思い返したのは二度聞いた左近の言葉。

『乱世で張る意地は戦と政だけで充分かと』

──素直に認めろ、ということか。
単なる嫉妬心も、傍にいたいと言われて嬉しいと思った気持ちも。

ふと感じた思いは自分とは縁遠い気がしてつい隅においやってしまう。
けれど目の前のの笑顔を見れば素直に認めるのも悪くない。
そんな気がして三成はらしくない、と自嘲気味に笑みを漏らした。

「嬉しいと、そう言っておこう」

目を見開いたの眼前にまた空になった酒杯が差し出された。

「頬が赤いのはおまえの気のせいだがな」

銚子を傾け涼しい顔で言い放つ。
然しその頬はやはり赤みが差していて、は思わず笑みを漏らしてしまった。

「何がおかしい」

「いえ、三成様が大好きだなあって思ったんです」

「……っ恥ずかしげもなく……」

「本当のことですから」

頬に感じた熱さはやはり気のせいじゃない。
三成は視線を逸らしてしまったけれど、ふと横目に入ったのはの着物の裾だった。
はそのまま隣で膝を折り、柔らかな笑みを向けた。

「なんだ、もう酔ったのか」

「少しだけ……でも三成様ほど顔は赤くないでしょう?」

「……っおまえ」

三成が睨みをきかせても効果はないらしく、はその傍らで微笑んでいるだけ。

「それにしても……たまには寝屋の外でもと、名前で呼んでほしいものです」

「なにを……っ」

明らかに動揺の色を見せた三成の顔。
隣のは淡々と酒に口をつけているだけ。

「三成様はたまに意地悪ですから……も少し我侭を申してみました」

「おまえも俺の頬を張ったりと礼をしてくれたがな」

「その時よりは赤くないです、三成様の頬」

どこをどう取り繕っても適わない。
自分はそこまで酔いが回っていない筈だと、三成はの手にある酒杯を取り上げた。

「百歩譲っても酒のせいだ」

「お酒ですか」



は微笑みつつ、三成に酌をする。
少し回り始めた酒による酔い心地と、三成が呼びかけた心地よい響きに
目を細め、首を傾げたが。

「寝屋に入ったら覚悟しておけ」

「……っあの、三成様?」

何てことはないといった風に酒を呑む三成には戸惑うばかり。
そのまま腕を引き寄せられてしまい、三成にしなだれかかる様に体を預けた。

「名前など好きなだけ呼んでやる」

「そ、それは寝屋の外でも、という希望でですね……」

ぐっと近付けられた口元、片側の耳が異様に熱くてはきゅっと目を瞑る。



「……なんですかっ」

また熱さを感じた耳元。三成の口元がそっと離されたことがわかり、
は固く閉じていた目をゆっくり開けた。
けれどそこには至って涼しい顔をした三成が。

「今更照れているのか? 頬が赤いのは俺の気のせいか」

「っ……三成様!」

はかあっと顔が熱くなって、しどろもどろになってしまう。
その真っ赤な頬にふと感じた温かな感触。
優しく撫でられた頬に、は胸の高鳴りを感じてただ三成を見詰めた。

「三成様……?」

伺うように見ればほんの少しだけ三成の口の端が上げられた。
垣間見えた優しげな表情にが感じたのはどこか熱くて、切ない気持ち。

「気のせいではない様だな」

未だ真っ赤に染められたの頬。
それは恥ずかしげに三成の肩に乗せられ、隠されてしまった。

──愛おしい

その気持ちのままに寄り添えば、感じた温かさにその距離を離せない。
そっと腕の中に抱き寄せて、その赤い頬を撫でて、小さく口付けた。
の頬から赤みが引かぬ間に、寝屋に小さくその名が響いた。







終わり。










執筆者:清葉様

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