* 夜が来るまで 我慢して *




 闇は、とても優しい協力者だ。
 特に、ひそかに心に誰かを棲まわせている者にとっては。


 戦勝の宴は、果てることなく続いた。
 その場にいる誰もが、この戦いに勝利した喜びに沸いている。中には、人目も憚らずに号泣している者も、いる。
 それも当然だろう、とはそんな人々の姿をぼんやりと眺め、考えた。
 とても辛い日々だった。いきなり世界が歪み、奇異な世界に放り出された。皆と力を合わせて血の滲むような思いで築き上げた国が滅び、君主も行方知れず、信じ、尊敬していた相手とも戦わねばならなかった。
 そんな悲しみにも、苦しみにも、今日で終止符が打たれたのだ。この歓喜も、本当なら自身も、心ゆくまで味わいたかった。けれど。
 (……お別れ、なのね)
 は、彼を見てはいけない、彼の事を考えてはいけない、という己の理性の声に逆らうかのように、もう一人の自分がそんなの嫌、離れたくない、もっと一緒に戦いたかったのに、と叫びそうになるのを、必死で堪えていた。ともすると視界が霞み、喉の奥で嗚咽が漏れそうになる。
 「
 呼ばれて顔を上げると、近くに星彩が立っていた。
 「父上が呼んでいるわ」
 「……張飛、様が……」
 今まで、これからは私を父だと思って助けて、と、頼りにしてくれていた上官の娘が、彼女にしては珍しく、あえかな微笑を浮かべてを見つめている。
 「これまで良く働いてくれた礼がしたい、と。行ってあげて。
 「……でも」
 「礼と言っても」
 酔い潰されるだけかもしれないけれど、と苦笑する星彩の前で、は俯いた。
 張飛の傍には、『彼』がいる。
 あの、凛々しいあのひとが。
 最初は自分を遠呂智の走狗、と決めつけ、撃ちかかってきたあのひとが……そして、味方となってからはこれ以上はないほどの心を幸せにし、惑わせ、苦しめ、甘く染め上げてきたあのひとが……いる。
 は、今、彼の近くに行く事が出来ない。
 劉備を取り戻した家臣の一人、否、末端だとは言え、彼女には共に再び蜀の国を造り上げ、育て、護るという務めがある。
 今、彼の姿を目に入れたら。
 声を聞いたら。
 その存在を欠片でも感じてしまったなら。
 自分は、蜀の兵となった我が身を、心底呪ってしまいそうだ。
 それが、には怖かった。自分が信じで進んできた道を、今更悔いたくはない。
 、と星彩は言った。
 「逃げては、駄目よ」
 「せ……星彩、様……」
 「逃げては駄目よ、。あなたは父上の……いえ、わたしの、部下なのだから」
 そう言われて、心が冷えた。


 案の定、宴の席で一番はしゃいでいた張飛から、とんでもない量の酒を飲まされたは、這々の体でその場を逃げ出した。
 実際のところ、劉備救出の報を聞きつけて信長軍から駆け付けてきた馬超、黄忠、関平らが到着したので、新たな『犠牲者』―――張飛に酒を強要される、という犠牲だが―――の登場に、やっと姿をくらます事が出来ただけの話である。
 相変わらずね、張飛将軍は。そう思うと、知らず笑みも漏れそうになる。しかし、のぼりかけたそれは形を作る前に崩れていった。
 おめえにも苦労掛けちまってよお、と張飛においおい泣かれて、閉口しただったが、そうされながらも、痛いほど突き刺さる視線は、感じていた。
 それは、どうかするとの瞳を、そして意識をもこちらに向けさせよう、と言わんばかりな勢いだったけれど、彼女は敢えてそれから逃れ続けた。絶対に、彼の方は見ないようにしようと心がけた。
 (……見たら…あのひとを見たら……帰りたくなくなる……)
 そういう危惧があった。
 自分は上官である張飛に、そしてこの戦いで指示を仰いでいた星彩に、君主の劉備に、生まれ育った蜀の国に、これからもこの身と魂とを捧げなければならない。先程星彩にも釘を刺されたばかりである。聡明な彼女には、の迷いが、手に取るように伝わったのだろう。
 しゃっきりしないとな、と、酔い覚ましのつもりで戸外に出て、冷たい夕暮れ時の風に当たった頬をぴしゃり、と叩いては踵を返した。
 返して、どきり、として、足を止めた。
 「ゆ……」
 幸村様。
 そう言おうとして、は唇を閉じた。
 くせのない、まっすぐな黒い前髪の下で射抜くようにを見据えていた異国の青年武将は、迷いも躊躇いもない足取りで、彼女に近付いていく。
 共に背を預けて戦う日々の中では、彼の―――幸村の、そんな様をどんなにか嬉しく、そして甘く、切なく思いながら見守ってきた事だろう。今は、やがて来る別離の為に彼がそうやって距離を縮めてくるごとに、恐れと悲しみしか手繰り寄せられない。
 「殿」
 しずかに、幸村は彼女の名を呼んだ。
 思わず、彼女は顔を伏せ、拱手の礼を取る。
 「幸村様……この度、我があるじが無事に帰還出来ましたのは、ひとえに」
 あなた様他、日の本の方々のご尽力の賜です、と続けようとしたは、不意に強い力が我が肩先に加わったのを感じ、息を呑んだ。
 「私が聞きたいのは、そんな言葉ではない、殿」
 「ゆ、幸村様、わたしは」
 先日、あなたに伝えた言葉は嘘偽りではない。その凪いだ水面のようでいて、底には何か烈しいものをはらんだような幸村の声音に、は目を閉じた。
 「……駄目、です……」
 「それは何故か?!理由を、聞かせて頂きたい」
 「わ、わたしは!…わたしは、蜀の兵です……!あなた様の所には……」
 語尾が弱くなっていくのは、あの時、いきなりぶつけられた彼の感情を思い出してしまったからだ。
 あの時の、彼の瞳、声、伝わるぬくもりを呼び起こしてしまったから。
 「…幸村様は……あの時わたしに、この戦が終わったらご自分のお国に……上田の地に、共に来て欲しい、と…仰せになりました……」
 「申し上げた」
 「それは…出来ないのです…わたしは蜀の人間です…そ、そのわたしが国を捨てるなど」
 頭上で、ふとい溜息が聞こえてきた。
 諦観のそれかと思ったのだが、肩に加わる圧力が更に増していって、はあやうく声を上げそうになる。
 「そうか。蜀の民、兵である御身であるならば、私と共に来れぬと。そういう事か」
 「……はい…ですから」
 「では、言い方を変えよう。殿。兵ではなく、ひとりの女として、私に付いてきてくれないか」
 彼を、見てはいけない。
 彼の声を聞いてはいけない。そう肝に銘じていたのに、は思いもよらず、顔を上げる事でそれらを反故にしてしまった。
 「蜀の国の兵としてではなく、ただの女性としての殿にお願い申し上げる。私の…私の傍で、生きていってくれないだろうか」
 「ゆ……」
 「武将真田幸村としてではなく、ただの源二郎幸村として…ただの、一人の、男として、蜀の民でも兵でもないひとりの女性としての殿にお願いする。私と共に生きていってくれないだろうか。私の傍で生を終えるその日まで、共に駆けていってはくれないだろうか……」
 幸村の、ととのった、生真面目なその顔が、髪の生え際まで真っ赤だ。その身に纏う六文銭の緋鎧の色と同じように。
 けれどもまた、自分が同じような色で全身が炙られている事を察していた。真っ赤に。
 「ど」
 どもりつつ、どうして、と無意識のうちに問いかけを紡いでいたに、幸村もまたつっかえつっかえ答える。
 あなたが、とても、慕わしいから。
 あなたを、他の誰にも渡したくない、と思うから。
 あなたのこの手を、もう、離したくないと願うから。
 そう、言った。
 「私の国に、一期一会、ということばがある、殿」
 「いちご……いちえ……」
 元々は茶の湯―――幸村達の国で、もののふの嗜みとして習得しなければならぬ作法の一つから生まれた言葉なのだ、という。もてなす側ももてなされる側も、この茶の湯の席はもう二度と巡って来ない、という心構えで相対せねばならぬ、という言葉だそうである。
 「しかしながらその真髄は、この現世に生きている中で、これ以上望めぬと思えるような、得難い相手との出会いだと…私はそう思っている。殿、あなたは私にとってその一期一会の相手なのだ…何もしないで、ぶつかりもしないで、自分の気持ちを伝えもしないで、あなたを去らせてしまう事は、私にはどうしても…出来ない」
 この世で出逢う、たった一人の相手。
 これ以上は望めないと思える、得難い相手。
 (それは…それは、幸村様、それは……)
 わたしもまた、同じです。同じ気持ちです。
 まるで出口を求めて暴れているようなその言葉が、自分の唇から溢れ出ないよう、は懸命に耐えた。耐えようと、した。
 けれど、今まさに決壊しそうな予感もして、身体が震えそうになる。
 「蜀の人間としてだけでなく、女としての立場でも私の乞いが受け入れられぬ、迷惑だ、という事ならば、遠慮なくそう言って欲しい。私も潔く諦める」
 「ゆ、ゆき、幸村様、わたしは…!」
 「そうでないならば、どのような手を尽くしてでも、あなたを連れて行く。劉備殿や張飛殿に、いかようにも礼を尽くしてあなたを貰い受けたい。力を示せと言われるならば、それにも応えよう。この槍に賭けて」
 真田の兵は、日の本一のつわもの。
 風の噂で漏れ聞いたそれが、あながち誇張ではないという事を、がしみじみ実感したのは。
 自分でも呆気なく、信じられない勢いで諾、と答えていて、裏切り者の我が口に愕然とする間もなく、ぎゅっ、と力任せに腕に囲われた、その瞬間であった。
 痛い。
 幸村の固い鎧が頬に当たって、滅茶苦茶、痛い。
 痛い上に、己の名を呼びながら頬に耳朶にうなじに這ってくる熱い、濡れた感触に、は大慌てに慌てた。
 まだ、遠くの宴席から騒がしい人々の喧噪が耳に届いてくるというのに。
 まだ、闇が舞い降りてもいないのに。
 「ゆ、ゆ、幸村、様!だ、駄目です、いけません、ま…待って!」
 暗くなるまで…夜が来るまで我慢して下さい、と懇願したに、一言、幸村は答えた。
 「大丈夫……殿」
 こう、目を閉じれば夜になるから。
 耳許に送られた、上擦り加減なその言葉に、は遂に根負けを、した。
 囁きと共に、大きな掌で閉じさせられた瞼の先には、確かに、夜の暗がりが広がっていた。



 「父上」
 宴のどんちゃん騒ぎの中、星彩はそっと、横に座って豪快に酒を煽り続ける我が父に、ぽつん、と言った。
 「帰ったら……の替わりを、探さないと」
 「へえ?なんで?」
 「……何ででも、よ」
 謎かけのようなその言葉に、なんでだよ、どうしてだよーと喚く張飛を放置して立ち上がった星彩の口元に、微苦笑が浮かんでいた。
 腕の良い子だったけれど、あの子は多分、成都には一緒に帰らないだろう、と思った。
 逃げるな、自分の気持ちから逃げてはいけない、と、彼女の幸せを願うその心のままに忠告した己の行動が正しかったのかそうでなかったのか、星彩には今の段階では何とも言えなかった。
 けれど。
 (……あなたは、逃げてはいけない。
 相手の気持ちから、そして自分の心から、目を背けては駄目よ、
 あなたは私の部下なのだから。そんな、弱い事では幸せにはなれないわ。
 おそらく、もうすぐ自分とは違う道を進むであろう部下の顔を思い浮かべ、星彩はそう呟いて、天を見上げた。


<おわり>





執筆者 : 『二枚舌』 新城まや様。
素材元様:苑トランス様。


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