--- あなたの嘘に おぼれたい ---



 は、優しくて真面目で誠実な男、と言われるものがきらいであった。
 そういう男は、いざという時には相手を――特に、女を――簡単に見捨てるものだと彼女は決めつけていたし、穏やかな言葉、真摯な目差しを向けられれば向けられるほど、胡散臭いやつめ、偽善者め、と軽蔑するのが癖になっていた。要するに、彼女は世に言うあまのじゃく、なのである。
 だが、そんなが惚れたのは。
 正真正銘、『真面目で誠実』と周囲からも太鼓判を押されるような男だった。


 「殿」
 からだの内部に吹き荒れていた、そら怖ろしいまでの熱風がしずまるのを、息を乱したままやり過ごしていたは、自分の上で同じように呼吸を荒げていた趙雲が、そっと、手を伸ばしてきたので、そうするつもりはなかったのに目を閉じてしまった。
 「殿……辛くは、ないか」
 「……別に」
 終わった後、必ず、趙雲はの身を気遣う。
 痛くなかったか。気分は悪くないか。そんな事を言われると、いつもは居心地悪い。なので、それに対していい加減に答える事に決めている。
 遠呂智に対抗するべく兵を挙げた島津義弘に付き従って戦っているのだからして、別にこんな事ぐらいで音を上げたりしないの心身なのである。たかが一回の性交ぐらい屁でもない。
 そう、内心で悪態を付くのだが、趙雲がおざなりな自分の反応に、それなら良いのだが、と律儀に答えるのを聞くと、不意に自分は今までこの男に抱かれていたのではなくて、一緒に武芸の稽古でもしていたのじゃなかろうか、という錯覚に陥る。
 趙雲を初めて見た時、なんて綺麗なひとだろうと思った。
 綺麗、というのは、たとえば、野に咲く花とか、格子越しに微笑む花魁とか、そんなものに対して使われる形容だと信じていたは、戦場で趙雲を垣間見て、男にもそういう喩えが通じる事があるのだと感心した。
 趙子龍将軍は、いにしえでも名高き武人だそうな。
 あるじの島津義久は、彼を評してそう言った。
 『そのようなつわものと共に戦えるだけでも誉れというものよ。、あのような武人から学ぶ物は多かろう』
 博打ばかりして遊んでいてはいかんぞ、と説教をされたが、まさかあるじもおのれの部下がその名高きつわものから何を『学んで』いるのか知ったら、苦笑いするだろう。そう思うと、何だかおかしい。
 そんな事をつらつら考えていると。
 殿、と耳許でちいさく、趙雲が囁いてきた。
 その声のようすが、どこか、切羽詰まっていて、ひどく怯えているようで、そのくせ、まだ挿ったままの趙雲の熱がふたたび、どんどん、猛ってくるのが分かって、は溜息をついた。
 こんなに綺麗な顔をしているのに、持っている男の業、生理は他と同じだ。
 当たり前か、とは趙雲の身体にうでを回した。
 「殿……」
 くちびるに、趙雲のそれが当たった。
 (この時代のひとも、口を吸うんだなあ)
 変な事に感心した。
 自分達の時代も、趙雲の時代も、男と女がする事にはさほど、変わりはないらしい。
 の両手をつかんだまま、ゆっくりと腰を蠢かし始めた趙雲のうごきに合わせつつ、は小さく、好きよ、と言ってみた。
 「私も………私も、殿…」
 あいしている。
 喘ぐように返されたその言葉に、は笑った。
 これはとても、気持ちの良い嘘だ。
 閨では欠かす事の出来ない、極上の嘘。
 趙雲にとっては、あるじを見失って、暗闇のなかを歩いているような心境をいっとき忘れさせるぐらいの情事でも、これぐらいの戯れを言わないと味気ないだろう。
 は、とても趙雲が好きだけれど、恋をしているけれど、それはだけのものだ。
 自分が勝手に趙雲を好きになって、勝手に気持ちのいいことをむさぼっているだけの事。
 きっと。
 きっと、綺麗で、つよくて、『真面目で誠実』なこの男には、元の世界に帰れば、それに相応しい相手が待っているだろう。
 一度、趙雲に言われた事がある。
 劉備殿に仕官する気はないか、と。
 趙雲にしてみれば、万年人材不足だと聞いている蜀の国の為に、我が身を差し出してを勧誘したぐらいの気だろう。
 自分にそこまでされる価値も技量もあるわけがない、とは分かっていたけれど。
 私について来て欲しい、ではなく、殿の為に、という風合いのその言葉に、自分はこのひとにとってその程度なんだな、と諦めもついた。
 彼は、国に帰ればちゃんと恋が出来るひとだ。
 肌を合わせる時だけの、暫定的な愛の言葉ではなく、本物の気持ちをこめたそれを言う相手が待っている筈だ。
 ちゃんと、分かってるんだそれくらい、とは自分に言い含める。
 それまで。
 (…いいよね。すこしくらい…)
 すこしくらい、夢を見たっていいよね。
 すこしくらい、溺れていたって、いいよね。この戦いが終わるまで。
 墜ちるような感覚に滑り込みながら、は、別れの時は笑っていよう、決して泣くもんか、と歯を食い縛った。


 薄い灯の下で、が少しくちびるを開けて寝入っていた。
 それを見つめていると、趙雲はひどく、自分のこころが和むのを覚えた。
 寝ている時のは、無防備で、子供のようで、いつまででも見ていたいと思えた。
 無理だと分かっていたけれど。
 これは儂の隠し玉でな、と、あの大男の島津義弘の後ろからひょこり、とが顔を出してきた時、島津殿は子供を戦に連れているのかと少々、呆れた趙雲である。
 実は、自分とさほど変わらぬ年齢なのだと知って、かの国の女性は、皆、このようにいとけない風情なのかと感心をしたが、そのがある夜、裸で自分の寝所に現れた時は目の玉が飛び出るほど肝を潰した。
 わたし、趙雲様が好きなんだもの。
 そう、へろりと言いのけたを、叱りとばして帰したものの、結局幾夜も経たぬうちにこんな関係を結んだ自分が、趙雲は情けなかった。恥ずかしかった。
 (だが今は)
 今は、恥じてはいない。後悔もしていない。
 あの時、好きよ、と真っ直ぐ目を見て言われた言葉に、男として反応しただけの事。
 そう心中で呟きつつも、趙雲は、の寝顔を見ながら表情を曇らせた。
 殿をお救いする事が叶ったら。
 殿とは、もうこんな事をするどころか、会う事もないだろう。この顔も、あの声も、近くで見たり耳にする事はないだろう。
 そう思うと、胸の奥が痛かった。悲しかった。
 はふざけてばかりいる女だったが、島津の言葉通り、すばしこくはたらき、機転も利き、一緒に戦ったらさぞかし心強いだろうと思えた。
 そして、悪ぶっていても、心根は優しいのだとも感じた。
 きっと、劉備様に会えるよ。だから頑張って。負けないで。
 何時もそう言って、挫けそうな趙雲の心を奮い立たせてくれた。
 なので、ある共寝の夜に、劉備様ってどんなひと?と聞かれたのをきっかけに、劉備への敬慕が溢れ出すままに語り出した趙雲は、話がひと段落した時に、思い切って言ってみたのだ。
 『殿、殿に…劉備殿にお仕えしてみる気はないか』と。
 と一緒にいたい。
 この戦いが終わっても。ずっと。
 そう、願ったから。
 あなたなら、素晴らしい戦果で殿を支えられる、と続けた趙雲の前で、は呆気なく否、と言って寄越した。
 『嫌だよ。わたしは、島津のお殿様の家来だもん』
 畳のないおうちや、焼酎と賽子のない世界にも住みたくない、と一蹴された。
 その時の事を思い出し、趙雲は暗い目差しで、眠るを見ていた。ころり、と寝返りを打って、自分に背を向けて寝息を立て始めるのが、の本当の心を現す良い証拠のように思えた。
 好きよ。
 その言葉は、からだを結び合わせている時だけ、の口から衝いて出る。
 眠りに入ったほんの僅かな時間、寝始めの時だけ見せてくれる表情を、もっと見ていたいのにと趙雲が落胆しても頑なに背け続けているのが、その愛の囁きに心がないという良い証拠、ではないだろうか。
 好きよ。
 きれぎれの、譫言のようなの言葉を耳にするたび、趙雲は我と我が身がどんどん度を外れていくような気がしている。
 『好きよ、趙雲様』
 それはとても、気持ちの良い嘘だ。
 閨では欠かす事の出来ない、極上の嘘。
 にとっては、時代を超えて巡り会ったこの関係に、気紛れを起こした事で始まった情事でも、これぐらいの戯れを言わないと味気ないだろう。
 劉備を見付けて、離ればなれになったなら、このはすぐに別の男に同じ言葉を与えてしまうだろう。おさない顔とは矛盾した、この蠱惑的なからだで、他の男とあたたかい巣を作ってしまうだろう。仲の良い、つがいの鳥のように。
 (連れて行って、しまおうか)
 埒もなくそう考え、趙雲はかぶりを振った。
 を、傷付けてはいけない。
 彼女にとってはほんのうたかたの泡のようなものでも、自分にとってはそうではないのだから。
 弁えなければ、と趙雲は自分に言い含める。
 それまで。
 (少しでも。ほんの、少しだけでも………)
 すこしくらい、夢を見てもいいだろうか。
 すこしくらい、溺れていても、いいだろうか。この戦いが終わるまで。
 嫌がるの手を遮二無二つかんで元の世界に戻っていく自分の幻影を振り払いつつ、苦く、趙雲は笑った。



 すこしだけ。
 あと、すこしだけ……

 あなたの嘘に、
 おぼれていたい。





執筆者: 『二枚舌』 新城まや様。
素材元様:FLASK様。

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