― すべては朔月から始まる ―
催事から数日経っても変わらず整えられている祭壇は見事で、亡き主が家人に慕われていたことが伺える。時は乱世。戦場で失われる命は数多あり、過日、彼もその一人に加わった。人の生死なぞ、元来自分とは関わりのないもの。この男とて黙って見送るべき命の一つにすぎないのだ。ここに来ることも、は間際まで迷った。結局、情に抗えず来てしまったけれど。
「そなたが好んだ薬酒を持ってきた」
懐から二つの杯を取り出して並べる。手に下げてきた竹筒の中身を注ぐと、ふわりと花の薫りが漂った。
「堅は、この薫りが苦手だったな」
先に逝ったもうひとりの友と彼とは酒の好みが正反対だったが、酒好きが高じて、三人で良く呑んだ。やれ、雪が降った、花が咲いた、月が満ちた、星が綺麗だ……
互いが用意した酒に文句をつけながら。
「今宵は月もない。雲が多くて星も見えないし、肴になるものが何も無いのが残念だが……」
杯の一つを手に、軽く掲げる。
「別れの酒だ。付き合うだろう?」
随分と感傷的になっているのは、自分でもわかっていた。こうまで心が残るのは、命の散る様を看取ることができなかった為か、結んだ縁が存外深かった為か。
手の杯を干そうとして、人の気配に振り返る。
皆寝静まったものと、油断していた。己が身を見咎めることの出来る者なぞ居ないだろうとも思っていた。だが。
現れた彼は、真っ直ぐにを見つめていた。
──ああ、ここは城の露台だ……
空には円い月。夢を見ているのだな、と凌統は思った。今夜は朔の筈だからだ。
──露台に居るのは大殿と親父か?
それに、一人の女。月の光をはじいて、白く長い髪が風に揺れる。ここからは後ろ姿しか見えないが、若い娘のようだ。
凌操が、息子に気づき、こちらに向かって手をあげた。
『 』
背を向けて立っていた娘が振り返る……
が、娘の顔がこちらを向く前に目が覚めた。寝台に身を起こしてため息をつく。
『おお、統!お前もこちらへ来て呑まないか?』
自分を見つけた父親は、満面の笑みでそう言った。死者の宴。呼ばれて行けば、自分も死人の仲間入りだろうか?
「まったく……」
呼ぶな。そんな宴に。
夜明けもまだ遠い時間だというのに、夢のせいですっかり目が冴えてしまった。一言文句を言ってやっても罰は当たるまい。夜着の上に手近にあった衣を羽織り、凌統は寝所を出た。
闇に沈む廊下を進み、父・凌操の為に設えられた部屋へ向かう。父と一夜を過ごすのに空手では侘びしいかと、途中で酒瓶を一本くすねて。誰も居ないだろうそこに無造作に踏み入って、父を封じる祭壇の前に佇む白い後ろ姿に呆然としてしまった。
自分はまだ、夢の中なのだろうか。
長い髪を背に流して立ち、杯を掲げる娘。それは父の隣、露台の柱に背を預けていた姿そのままだ。
見つめる視線の先で娘が、干そうとしていた杯をとどめて振り返る。今度は、目は覚めなかった。
かわりに、凌統を認めて驚いたように目を見張った彼女が、祭壇を横目で睨んで、言った。
「そなたが呼んだのか?」
口元にのった困ったような笑みが、美しいと、思った。
父を偲び、館を訪れる者は多い。孫呉の主も、周軍師を伴ってやってきた。これよりは凌操に代わり凌家の当主として呉に尽くせ、との言葉は記憶に新しい。昼間であれば、そうして祭壇に向かう姿も見慣れたものだが、このような時間に案内もなく在るのは、無礼であるし不審だ。
しかし、凌統の頭には、彼女を誰何する、という行為が浮かばなかった。、と名乗った二十歳にも満たぬように見える娘が、父の酒仲間だと言ったことも素直に信じる。先に見た夢を話すと、やはり操の奴が呼んだのだな、と彼女は笑った。父を諱で呼ぶ不遜さも、何故か気にならない。
飲むか?と示された竹筒に、じゃあ遠慮なく、と持参した杯を差し出す。椅子や卓を出してくるのも面倒で、祭壇の前、床の上に二人して座り込んでの酒盛りだ。
「親父とも、こうして酒を?」
「まあな。何かと理由をつけては、三人集まってよく飲んだよ」
聞きながら口にした酒の風味に覚えがあって、凌統は息をのんだ。
「こいつは……」
出陣前夜、天幕に呼ばれて一献だけ交わした酒。最後の酒杯にならぬよう心しろよ、と父は笑った。
「操と最後に交わした酒、だろう?」
思考を読んだかのように発せられた言葉に顔をあげると、が、その猫のような琥珀の瞳を細めた。
「私が漬けた薬酒なんだ。趣味でね。操もこういう手合いが口に合ったらしい。いい批評家だったよ」
空いた杯に、竹筒から新たに注がれる。
「じゃあ、サンがこいつを親父に持たせたのかい?」
「持たせたんじゃない。届けたんだ」
陣中に。
「……は?」
届けた?
「コレがどれほど我が儘な質だったか、知らぬだろう。そなた」
コレ、と祭壇を指して、がからかうように言う。春香がどれほど苦労したか想像に難くないぞ、と母の名まで出てきて、凌統は唖然とした。
「この酒は飲み頃が難しいんだ。瓶子に分けて運んだのでは、数日で劣化する」
だから。
「開戦の期日に合わせて漬けたものを、前夜に届けてやったんだ」
「それは随分……手間とらせちまったみたいで」
「まったくだ」
だが、苦情を口にしているようでその実、は嬉しそうだ。口元が緩んでいる。
「迷惑かけられた、と思ってるようには見えないんですがねぇ」
「面倒だとは思ったが、迷惑だとは感じなかったからな。操に、陣中で是非にと請われた酒だ。いい状態で呑んで欲しいじゃないか」
なるほど。酒を嗜む上でのこだわり、というものか。まだ年若く、自ら求めて飲むといった経験もない凌統には解らない感覚だ。手の中の杯を再び空にして、ふと疑問に思ったことを聞いた。
「何で俺が親父とこれを飲んだってわかったんです?」
「戦場に酒など持ち込んでどうする気だ、と問うたら」
にやり、と形容するに相応しい笑みで、は凌統を見やった。
「初陣の息子と飲みたいのだと、それはもう、親バカの見本のような顔で答えてくれたからな」
つまり、あの夜の酒は凌統のために用意されたものだったわけだ。
酒精からくるものではない熱が体内に沸く。
勘弁してくれ、親父。親バカの見本みたいな顔ってどんなだよ?
がっくり肩を落とした凌統に、まあ奴の親バカぶりは今に始まったことでもない、気にするな、とが何の慰めにもならない台詞を吐いた。竹筒から三度、互いの杯を満たして、もう無くなってしまったか、と呟く。酌み交わすために持ってきたものではなかったので、さほどの量はなかったのだ。
凌操に、と杯を掲げたに倣って、凌統も最後の薬酒を干した。
「よし」
一つ頷いたは、凌統が持参していた酒瓶を引き寄せて勝手に開封する。
「この際だ。操が九泉で悶絶するような話をしてやろう」
それから二人は、少ない酒を嘗めながら語らった。
家の都合で定められた父と母の婚姻。不承不承座った婚儀の席で初めて会った母に一目惚れした結果、不本意だったのはまさにお互い様で、不安に泣く母を前にどうしていいかわからなくなった父がに泣きついたこと。
やっとの思いで口説き落とした愛妻が出産に苦しむ産屋の隣室で青い顔をしていた父に、気付けの酒を用意してやったこと。
息子の誕生に、男泣きに泣いて喜んだこと。
幼子が立った歩いたと、何かあるたび繰り返し自慢する親バカぶりに閉口したこと。
当主の座におさまったばかりの頃に仕出かした失敗の数々……
の口から語られる父の姿は想像もしていなかったもので、確かに今頃は泉下で悶絶しているかもしれないと凌統は思った。と同時に、安心もした。あの父も、初めから厳格な当主であったわけではなかったことに。
様々な経験を積みながら、凌家を支える力を蓄えていったのだ。焦ることはない。自分も時間をかけて少しずつ当主らしくなっていけばいい。
陽の光に色を変え始めた空に気づき、長居をしすぎたと腰を上げたを、凌統は呼び止めた。
「またこうやって、親父の話、聞かせて貰えないかな」
彼女との縁を、この場限りのものにしたくはなかった。
「サンの酒も、また飲みたいしさ」
「…………………わかった」
暫しの沈黙があったものの承諾してもらえたことに安堵して、無意識のうちに詰めていた息を吐く。が、次の瞬間には伸びてきた白い手に髪を抜かれ、痛みに顔をしかめる羽目になった。
「いっつー」
すまんな、と全く謝意の感じられない口調で謝ると、は自分の髪も一本抜き、二つを合わせて懐紙に包んだ。咬みきって流した親指の血で何やら書き付けて、折る。折りあがったそれは、鳥の形をしていた。
「……どうするのさ、ソレ」
首を傾げて覗き込む凌統を、まあ見ていろ、と少し下がらせる。
「急々如律令」
声に従って、掌から紙の鳥が浮き上がる。僅かに光を発して、それは真っ白な羽を持つ優美な鳥に変化した。鷺に似てはいるが、見知っている鳥より二回りは小さい。ばさりと数回羽ばたいて、の指に納まる。
「代替わりした直後はなかなか予定が定まらんだろうからな。暇ができたらこいつに文でも付けて飛ばしてくれ」
差し出された鳥を受け取って、まじまじと眺める。
「えっと……餌は?」
聞くともなしに発した問いに、が噴き出した。
「要るわけないだろう。そいつは式神だぞ?」
元はただの紙だと笑う。紙は食事などしない。道理だ。
「サンって、道士かなんかなの?」
「いいや。私はそもそも、人ではないからな」
言われて初めて、凌統は愕然とした。そう、外見のままの年齢であれば、父の過去など語れよう筈はない。改めて目の前の女性を見やって、気づいた。自分を見つめる琥珀の瞳、その瞳孔が朝陽を浴びて収縮する――猫のように、縦に。
言葉を失った凌統から視線を外さぬまま、がゆっくりと尋ねた。
「恐ろしいと、思うか?」
反射的に首を振る。
「まさか」
声も、きちんと出た。
「サンはサンだろ?親父の飲み仲間で、今日からは俺とも友人。せっかく親父が引き合わせてくれたってのに、ここで怖いなんて引き下がったら男が廃るっつーの」
「廃るほどの男が、そなたにあるのか?」
「酷いなぁ」
「まあ、見込みがないこともない。しっかり己を磨くことだ」
ではな、と背を向けたの姿が、すっかり明るくなった陽の中でぶれて瞬く間に変化した。
新雪のような毛並み。しなやかな尾が揺れる。風が巻き起こって、は部屋から消えた。
「猫みたいな瞳だとは思ってたけど……」
虎だったのか、と一人ごちる。それもおそらくは、風を操る白虎。一体父はどこで彼女と出会ったのだろう。
動き始めた家人の気配を感じて、手にとまらせたままの鳥に目を移した。
─―鳥かごが要るかな?
水も餌も必要ないだろうが、部屋に放し飼いは不味かろう。床に置きっぱなしだった二つの杯と酒瓶、空のまま放り出されていた竹筒を拾って、凌統も部屋をあとにする。
誰もいなくなった室内で、祭壇に残された三つ目の杯に夜の名残が薫った。
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