健やかなる時も、病める時も










 切り付けられた左の二の腕から夥しい程の赤い液体が滴り落ちる。まるで己の左腕を丸ごと切断されてしまったかのような激しい痛みが熱を帯びる。苦痛に眉を顰めながら右手で患部を抑えるものの、噴出す鮮血は静まる気配を見せない。傷口はそれだけではなく、全身に大量の切り傷を受けていた。満身創痍という言葉が当てはまる程に。

 雨が降っていた。
 広大な大地は戦乱の生贄になった者の血で真っ赤に汚れている。それらを洗い流していくかのような、とても強い流れの雨だった。
 敵味方、もはやどちらが勝ったのかもよくわからない。太鼓の音も土砂降りの音に掻き消され響かない様。

 劣勢――――。
 曇天の元に聳え立つは白帝城。はそれを目を細めて見つめた。微かに開いた唇からは弱弱しい呼吸が白い息を作る。時は既に夕刻。周囲は冷え切っていた。
 星彩は今どこにいるのだろうか。
 馬超様はまだ戦っているのだろうか。
 趙雲様は無事だろうか。
 劉禅様は――――。
 震える膝を制しきれず、は背中を大樹に預けると、そのままずるずると根元へ座り込んだ。
 抱え込んだ戟から、雨と交じり合った血液が柄を伝って落ちてくる。先ほど腕を押さえ込んだ右掌は真っ赤に塗れ、戟の柄を掴みなおしてもずるりと抜け落ちてしまう。

「……参った、なぁ……。」

 溜息が零れ落ちる。
 その呼吸すら今にも止まりそうな程に衰弱しきった身体は、かつては「蜀の五虎大将軍」と対等に戦場でその武を披露する女将軍として称されたものだった。
 しかし、現在のは違う。辛そうに肩を上下させては小さな胸で呼吸を繋ぐ、ただ一人の小娘だった。
 それを自覚する度に、の心は重くなる。

 死が怖いわけではない。
 何度も場数を踏み、死と隣り合わせの第一線で戦い抜いてきたが恐れるもの。

「………………っ……。」

 その柔らかな繊維が破れる程に、は唇を噛み締めた。



『……。またこのようなところで軍議をすっぽ抜かしておいでですか。』
『わっ、見つかった……っで、でも丞相、馬超様も……ってあれ!?馬超様!!?』
『逃がしませんよ、……。』
『だ、だって私、戦略とかさっぱりなんですもん!
 私が戦いにおいて貢献できるのはこの槍裁きだけなんですってばー!!』

『えーっ、いいんですか!?趙雲様ーっ!』
『ああ。さっき、民に点心を多く頂いたんだ。、これ好きだろう?』
『うわっ、ばかり……ずるいです!』
『そう膨れるな、姜維。お前の分もちゃんとあるから……』

『どうじゃ、。素晴らしいだろう、この松は!』
『うーん……?星彩はわかる?』
『さっぱり。』
『何じゃ、今の若い者は盆栽の心をまったく理解しておらん!そもそも……』
、星彩。お茶にしましょう。午前の訓練は疲れたでしょう?』
『あっ。月英様!ありがとうございますっ。星彩、いこいこー!』
『こらぁっ!年寄りの話を聞けーぃっ!』



 呉軍が、石兵八陣さえ破らなければいい――――。
 はそっと目を瞑る。耳を澄ましてみたところで、所詮聞こえてくるのは地面に叩きつける雨の音のみ。
 関羽が逝去した後、呉の孫権の計らいで尚香は呉に強制的に送り返されてしまった。妹の身を案じてのことだとはわかるが……やはり、寂しいものがある。
 彼女は、今回の戦場にいなかった。
 そう心の中で確認するように繰り返し、少し安堵の息を漏らす。

 夷陵の戦いの敗戦から蜀は圧され気味だった。
 怒りの情に任せた戦など成功するはずが無い。……そう、わかっていた。恐らく仕掛けた劉備も自身で理解していたはずだろう。しかし、関羽を討ち取られたこのやるせない哀しみと怒りを何にぶつけていいか誰にも知る由などなかった。
 そう、は認識していた。
 今回の戦はそんな蜀の内情を反映してか、ほぼ防戦一方の劣勢であった。兵の士気もあまり上がらず陣形は崩れ、ほぼ型崩れのまま個人の隊が白帝城への道を塞ぐような戦となってしまった。
 指揮をとるはずである諸葛亮は、姜維と月英を連れ北伐の準備にかかっている。代わりに馬謖が指揮を任せられたものの、呉の陸遜の知略の前には為す術がなかった。

「……月英様も、……丞相も……いなくてよかった……。」

 いいや、丞相が白帝城にいればこんなことにはならなかったか。
 自嘲気味に笑うと、は背中だけでなく頭も全て大樹の幹に預け、灰色に覆われた空を仰ぎ見た。

 自分が蜀の皆のために唯一出来ることは、この戟で敵を切り裂くことではなかったのか。



。度々軍議を抜け出していては、いざという時に統率が乱れます。』
『う……。』
『自軍の策を理解しないものには常に死の影が付きまといますよ。
 ……私は貴女に怪我など、ましてや命を失って欲しくないのです。わかりますね。』
『……なら丞相、貴方が直接私に命を下して下さい!
 私は貴方の策になら一切反論は致しません。貴方の命令で、私は戦場を走る稲妻になります!』



 丞相。わかりますか?
 あの時の私は、決して貴方のお説教を避けるために口から嘘出任せを言ったわけではないんです。


 の瞼の裏に、白い扇を携えた愛しい人の面影がちらりと浮かぶ。
 自然との頬が緩んだ。

 報われない想いだということは理解していた。
 月英との仲睦まじい姿を見ると少しの切なさに襲われるものの、二人の仲を壊すつもりなど毛頭ない。むしろ、愛しき人に関わるもの全てをこの手で守らねばならない。
 年端もいかぬの淡い恋心は彼女の心を強くさせた。信念だけではない、大切な者を守るための力をつけるためいっそうの稽古に励み、武術においてもめきめきと腕をあげた。そして、戦場においては将の称号を与えられ見事一線で戦い抜くことを許されるまでに上り詰めたのだ。

 蜀の皆の笑顔を守るため。
 丞相、貴方の全てを守るため――――

 ――――そうだ、私はまだ、戦わなければならない。


 激しい痛みを堪え、は立ち上がった。
 その大樹の元には既に夥しい量の血溜まりができていた。原因は唯一人しかなく、彼女の身に死の危険が迫っていることは明らかだった。


「いたぞーっ!矢を放てっ」

 正直、戟を片手に立ち上がるのがやっとだった。
 それでも放物線を描き鋭い速さで己に向かってくる数本の矢を戟で全て薙ぎ払うと、は持てる力を振り絞り、叫んだ。

「蜀の女将軍、、ここに参る!
 命が惜しい者は立ち去れ!腕が立つものにはこの首を与えよう!!」

 赤い帷子を身に纏った兵が一丸となり突き進んでくる。
 は覚悟を決めた。

 良かった。ここに丞相がいなくて。月英様がいなくて。
 御二人には血を浴びて欲しくはない。
 何かを守るために汚れるのは、自分だけで十分だ。
 
 口元に笑みを浮かべたは己に向かってくる敵兵に戟をつきたてた。その返り血を浴びた彼女の若草色の戦闘服もまた、紅く染まった。




「こ、孔明様……」
「これは……っ」

 白帝城に到着した諸葛亮らが見たものは、劣勢の自軍だった。
 陣形を崩した隊は壊滅状態。将軍と名のつく者は生き残っているであろうが、兵自体の数は大きく減っていた。ある程度の損失は覚悟して駆けつけたものの、予想以上の劣勢に閉口するより他は無かった。

「すまないっ、奇襲さえなければ……」
「石兵八陣は破られていない。相手の兵力も削いだ。……だが、間に合わん……っ」

 趙雲は大きく項垂れ、馬超は苛立ちを隠さず兜を地面へ投げつける。二人とも戦える身体ではあるものの、やはり全身に傷を受けていた。

や星彩は?」
「……わからない。急な襲撃故、馬謖殿に従って私は劉禅様の近くに、馬超殿も白帝城付近を固めた。
 第一線へ出向いた星彩や黄忠殿、……とは連絡がつかない……!」

 悔しそうに拳を叩きつける趙雲に、尋ねた姜維はがっくりと項垂れる。
 これだけの劣勢、兵が壊滅状態ということは当然、それを率いている将も……。
 誰もの脳内に過ぎる、“敗北”の文字。
 それは即ち、“死”を意味する――――

 諸葛亮の扇が小刻みに震えていた。
 諸葛亮の扇を持つ手が、震えていた。


「……退きましょう。」
「丞相……っ」

 静まり返る将の中に、諸葛亮の声がやけに大きく響く。
 その意図を真っ先に理解した姜維が、やりきれない想いを口にする。が、しかしそれはたった一言のみでしか表すことができなかった。

「今は、劉禅様の命をお守りすることが最優先です。
 動ける兵は負傷した兵に手を貸し、これより少し先の北の地へ移動するのです。
 幸い、今は雨。呉も動きを止めています。趙雲殿、馬超殿、貴方達は兵を気にかけながらの移動となりますが、お願い致します。」
「おい……っ、じゃあ、は……!」

 初めて、馬超が苛立ちを口にした。「見捨てるのか?」という言葉が後に続くことは明白だった。
 しかしそれも致し方ないことだということを、諸葛亮が正論を述べているということを、誰もが理解していた。
 勿論、馬超自身も。
 ……だから諸葛亮は沈黙を守り、馬超もそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。

 やがて姜維が指揮をとり、趙雲、馬超らが兵を纏めて移動してゆく。
 それらをひと通り見送り己も引き連れてきた兵に指示を出す諸葛亮に、月英はそっと近づいた。

「孔明様。
 を探しに行ってあげてくださいませんか?」

 その言葉に諸葛亮は目を見開いて月英を振り返った。
 月英は穏やかに微笑みながら、小さく頷いた。

が孔明様をお慕いであることは……ご存知なのでしょう?
 ……そして、孔明様自身がに特別な想いを抱いていることも。」
「!月英……」
「後のことはお任せ下さい。私は星彩を探し、姜維は先の列の導き手となりましょう。落ち着いたら遣いを出します。」
「……しかし……」
「あら、私に遠慮なさっているのですか?」

 いつも慎ましやかである月英が、困惑する諸葛亮を見てくすりと笑った。諸葛亮はそれに少し驚きつつ耳を傾ける。

「ならば考えることはありません。の元へお急ぎ下さい。
 いつか……あの子が、孔明様にとって私と同じ位置になるということ、予感しておりました。」

 月英のふんわりとした優しい笑みに、あの冷静な諸葛亮も心を大きく揺さぶられる。
 更に、彼女は涙ぐみながら続けた。

「私は一向に構いません。どうぞ、お気を留めずに。
 私の孔明様への気持ちも、私がを大切に思う気持ちも……例え孔明様が新たに妻を娶ろうとも、ずっとずっと変わりませんわ。」

 目を細めて「さあ、」と背中を推すように促す月英に、諸葛亮はそっと目を伏せて手を組み、頭を下げた。




 長い戟が旋風のように回る。その度に血飛沫が上がり、最期の悲鳴が木霊する。何度聞いても慣れないその苦痛の断末魔の叫びに眉を顰めながら、は力の入らぬ身体で敵兵の剣を交わした。
 何度戟を振っても絶えることのない敵兵の群れ。辺りに充満する鉄染みた血の臭いは、既に強い雨でも拭いきれない。
 身体の限界など、とうに超えていた。
 の命を支えているもの。それは蜀を愛する気持ちと、諸葛亮への淡くも強い恋心だった。

「丞相を、守らな、きゃ。」

 意志が言葉となり、その身体が動く。
 大きな戟が回転し敵兵に刻み付けられる。迸る赤い液体。その、繰り返し。
 血塗られた道でも良かった。
 その先に、好きな人の穏やかな未来が見えるならば。



『……では、。命令を下しましょう。』
『へ?もう、ですか?』

 の申し出に、遠慮なく答える諸葛亮。が訊き返すと白い扇がひらりと揺れ動いた。

『ええ。
 ……。決して戦いで命を落としてはなりません。
 貴女が死ぬ時は、蜀が堕ちる時。即ち、私も一緒に逝きます。
 いいですね――――』



 頭を撫でてくれた、丞相の手。
 もう一度その温もりに触れたい。

「私は……っ まだ死ねないんだっ!」

 強い意志が形を持つ。
 正に、命が脅かされるその一瞬。
 戟の隙間を縫うように突かれた槍がの左脇腹を掠める。槍の刃先はの戦闘服を切り裂き、勢いよく赤い鮮血を噴出させる。は苦痛に顔を歪めながらも、深い傷で殆ど力の無い左手でその槍を挟むように固定すると、すかさず右腰から短剣を引き抜いて槍の持ち手に深々と突き刺した。

 その時だった。


っ」

 聞き慣れた声に、短剣を敵兵の身体から引き抜こうとするの動きが止まる。
 目が熱くなる。
 そんなはずは無い、ここにいるはずが無い、いてはならないんだ。
 そう言い聞かせて首を振ろうとするの双眸が馬に跨りながらこちらに駆けつけてくる諸葛亮の姿を捉えた時、一瞬張りつめていたの気が緩んだ。

「危ないっ!!」

 そう諸葛亮が叫び、手綱を放した手で己の扇を鋭くに向かって投げつけた。それはの顔の真横を通り過ぎ、背後から忍び寄る敵兵の槍を持つ腕に直撃する。は瞬時に短剣から手を離して戟の刃で相手の身体を切り裂き、扇が当たった衝撃で相手が落とした槍を自分の手に持ち替え、新たに正面から向かってきた敵兵の腹部に突き刺した。
 大量の血飛沫が空中に舞い、土砂降りのようにへと降り注ぐ。
 その惨劇を目の当たりにした残りの数少ない呉の敵兵は、拠点兵長を亡くし統率を失った上に諸葛亮の登場もあり、後ずさるように八方へと散っていった。
 耐え凌いだ、という安堵感からか、の身体が崩れ落ちる。馬を降りての元へ慌てて駆け寄った諸葛亮は、の全身が泥と血液が入り交じった大地に叩きつけられる前に抱きとめた。その、白い衣が赤に染まるのも気にせずに。

……っ」
「じょ、しょ……。だめ、ですよ。こんな所にいちゃぁ……。
 劉禅様は……?馬超さ……、趙雲様は?星彩は……」
「この地から撤退している最中です。星彩は、今月英が探しています。」

 ぐったりとして起き上がることが出来ないの頭を、諸葛亮は胡坐をかいた己の足の上に乗せた。諸葛亮の熱が伝わるその姿勢に、は気持ち良さそうに目を細める。

「月英様も無事なのですね……、よか、た……。」
「どうして、どうして退かなかったのです。攻められたらまずは後退するのが兵法の基本でしょう。」

 諸葛亮はだらりと垂れたの左手を強く握り締めた。その腕は鮮血に彩られ真っ赤に濡れている。
 怒るような、まるで問い詰めるようなその口調。いつものならば閉口し「すみません」と謝罪を述べるものの、今は違う。大分弱まった雨に顔を濡らしながら微笑した。

「……守りたいんですよ。
 蜀のみんなの笑顔とか、好きな人が……守ってるものは、全部……。
 追い詰められた時、程、退けないじゃ、ないですか……。」

 残念ながら自分には知力はない。
 持っているのは僅かな武力だけ。例え五虎将には適わなくてもいい。それが血で汚れた方法でも構わない。
 諸葛亮が守ろうとしているものは、自分の守るべきもの。

 「えへへ」とはにかむ様に笑うの冷えた頬に、諸葛亮はそっと手を当てた。
 つられて己の頬も緩んでいることを自覚するのに、時間は要らない。
 彼が大切にしているのは彼女自身でもあるのに。彼女は気づかずに、ただただ彼を慕う。

……。これからも、ずっと、私の傍に居てくれますか?」

 穏やかに諭すような、その口調。
 いくら人を斬っても鈍ることは無いその瞳を持った眼をぱちくりと瞬きさせたは、少し間を空けてからくすりと笑った。

「おかしな、丞相。
 私はいつも、貴方の傍にいるじゃありませんか。……じゃなければ、誰が私に命令を下すんですか?」

 「姜維はちょっと頼りないです」と微笑むその表情は、少女というには大人びていて、女性と呼ぶにはあどけなくて。
 ポーカーフェイスの裏に隠された、心の奥底の激しい感情が沸々と込み上げてくる。
 珍しいのは、彼がそれを隠そうともしないことであった。

「そうですね。
 健やかなる時も病める時も……、如何なる時も、私の傍から離れないで下さい。
 ……約束して下さい、。」
「は、い……亮、様…………」

 額を諸葛亮の熱を持った手に撫でられ、は気持ち良さそうに目を細めた。
 その目尻を、雨粒とも血液とも違う、透明な雫が伝い落ちた。


 満ち足りた感情が二人を優しく包み込み、血で染まる戦場には相応しくない、ささやかな幸せを運んでくる。
 永遠に、時が過ぎてゆくかの如く。

「……ちょっと、眠いです……いい、ですか……?」
「ええ、ゆっくりと。ずっとここにいますよ。」

 眠たげに首を傾げるに、諸葛亮は静かに微笑んだ。
 先程まで死闘を繰り広げていた女武将と同一人物とは思えない程の、穏やかさだった。
 気持ち良さそうに諸葛亮の膝の体温を感じたあと、は静かに目を閉じた。
 彼女の音が、静まり返った戦場へ出て、消えてゆく。
 彼はそっと上半身を屈めると、愛する者を守ろうと戦い抜いた愛しい彼女に己の唇を寄せた。


 ――――雨は、止んでいた。




Fin.




 執筆者 : 紅河 XI 様   サイト : 甘色戦略 様


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