兄の曹丕が遠呂智軍を離れた後、は許昌へと戻ることが出来た。といっても一変した世界である、見慣れた都とはどこか違っていたのは仕方がなかった。
 それに戻ったといっても、兄は変わらず戦へと出ている上、居て欲しい人が許昌にいないから、寂しいというかおもしろくない日が続いていた。
 空が変に暗い、そういう日が続くのに見慣れていると、空が晴れ渡った変化にすぐ気が付いた。何かが終わって、何かが始まるような気がしたものだった。
 そして、昼間は天候の狂ったようにさわやかな青空が広がり、美しい星の夜空と交互に見上げて過ごしながら五日、曹丕と石田三成が帰城したと思うと、その後ろには父と、帰りを待ち焦がれていた人が、守られるようにやって来るのを、は許昌の外門の上で見たのだった。――



贈り物なんかいらない




 ――眩しい日差しが庭に緑の影を落とす。その揺れるやわらかい芝の上を、鞠が一つ転がってきたので、そうら来た、と思わず口の端を上げて典韋は微かに笑い、拾い上げた。
 目を上げれば、長い裾を引き、髪を結い上げた姫君が、嬉しそうな微笑を浮かべて駆け寄ってくる。
「ありがとう、典韋様」
 そう言うと当然のように両手を差し出した。典韋が庭へと下りるたびに鞠がここまで転がるか、または木の枝に引っ掛かるのである。そして彼女は当たり前のように典韋へ助けを求めてくる。いくら自分もそういう心情に疎いといっても、この姫様の行動は分かりやすい。
 が、典韋はそれと知りつつ、鞠を手渡してやりながら、いつも同じことを注意するのである。
「姫。注意しなきゃいけませんや」
「うん」
 そんな言葉をかけると、は嬉しそうにはにかんで、耳たぶを染める。その様子を見ることもまた、典韋には小さな楽しみになっていたのだった。
 ……曹操が久しく許昌の門をくぐった日、この姫は落ち着いた態度で、
『父様。ご無事だったのですね』
 と、たった一言で父を出迎えた。曹丕との再会もそうだったが、典韋から見ればこの親子は変に恬淡たるものである。そういう息子や娘の一言を、特に父も咎めはしなかった。
 曹操を身近で守る役目の典韋だけど、それ以来が父親へ親しく近づいたことはなかった。ということは、別に二人きりで親子の再会を味わった、というわけでもないらしい。
 なのに典韋に対しては、廊下で姿を見かけるたびに、明るい笑顔を向けて近づいてくる。
「……姫は、御大将をどう思ってるんですかい」
「どうって?」
 うっかり訊ねてしまった彼に、相手は首をかしげた。――「そんなことより、典韋様、あの花の枝を、一つ取って」
 指を差す先に、白木蓮が日差しに反射するように、白い花びらを広げていた。甘い花の香りが漂っていたのは、あのせいだったらしい。
 背筋を伸ばせばでも届きそうな低木である。けれど典韋は快く手を伸ばして、花のついた枝を一本折ると、それをへと手渡した。
「ありがとう」
 両手に鞠と花枝とを持つ彼女の表情は、何やら忙しそうに、喜びと照れ臭さと、交互に変えている。
「姫。わしに用事はこれで終わりですか」
「まだ。まだ用があるから、典韋様、父様の元に行っちゃだめ。用はね、ええと、用は……」
 視線がせわしなく庭中をさまよった。何か用件にあたることを探している。ということは、元々にはこれといった用事がない。それなのに典韋を呼び止める。「鞠」や「花枝」という小道具でもって。
 しかし、めぼしいものが見つからず、必死な面持ちになっていくの表情が、しだいに曹操の切羽詰った顔に見えてきて、典韋は思わず「姫」と声をかけて止めた。――普段は特に似ているとも見えないのに、追い詰められた表情はよく似ている曹家の親子だ。
 潤む瞳を強く典韋に向ける彼女に、さらに続きを言おうとして、口を開きかけると新たな声がさえぎった。
「典韋。出陣が近い。早く行け」
 曹丕だった。
 は新しく現れた兄を、きつい視線で睨んだ。その顔は不満そうである。そういう妹に一度目をやったが、曹丕はそっけなく目を典韋へと戻す。
「これが勝手なことを言うのはいつものことだ。気が咎める必要はない」
「しかし、曹丕殿」
「いいの、典韋様。ご出陣が近いのは、仕方ないもの」
 が、口ではいつになく聞き分けのよいである。
 日なたで彼女はにっこりと笑い、胸の鞠を曹丕へと突き出した。
「兄様、お部屋に持って帰って。私は、典韋様と、父様の元にごいっしょするから」
 不承不承、おとなげない妹の手から鞠を受け取る兄。は鞠を手放してから、典韋へと振り向くと、
「典韋様、おんぶして」
「は?」
「おんぶして」
、いい加減にしろ」
 呆れたように溜息をつく曹丕。兄と睨み合う。こんな兄妹喧嘩があることは、世界が平和な証だとは思うのだけど、今回の出陣は各地で暴れる遠呂智軍残党を駆逐するための行軍である。ここでまごついて曹操を待たせるわけにもいかない。
「曹丕殿。わしは構いません。姫、いいですか?」
「うん」
 しゃがんだ典韋の背に、嬉々としては身を預けた。彼の背中におぶわれる彼女は兄に向かい、
「兄様は先に行って。典韋様、出来るだけゆっくり歩いてね。ゆっくりとね」
 ゆっくりと、というところを強調する。曹丕は典韋と妹を冷めた視線で見守っていてから、
「典韋。父の護衛に、妹の子守、面倒な役割ばかりをさせて済まぬな」
「曹丕殿。らしくねえんじゃありませんか」
「……、そうだな。典韋、先の言葉は忘れろ。……それから、先に行く」
「はい」
 曹丕が大股に宮殿へと戻っていくのを、典韋は姫を背負ってゆっくりとその後を追う。強い日差しは彼女を負う典韋の首筋や額に汗の滴を流した。そこに風が吹き、涼しさが心地よい。
 さらに、甘い香りが鼻腔を通った。典韋の首に両腕を巻く、の持つ白木蓮が、視界の端で揺れている。
「典韋様」
 顎を彼の肩に押し付けて、姫が呟いた。甘やかな呼吸が首筋をくすぐった。
「……父様を守ってくれて、ありがとう」
 歩きながら、典韋は目を見開く。父――曹操のことを、こんな形で彼女が口にしたのは、五本の指で数えられるほどしかない。
 父に対して「無事だったか」としか言わなかった曹丕もまた、典韋には父を守り続けた労をねぎらった。遠回しな言い方で互いを思いやるこの親子が、面倒くさくて、いとおしくなる。そう思ってくると、しだいに開いた目元は笑みでほころんだ。
 だから彼は、安心させるように微かな笑い声で言い返す。
「御大将を守り通すことが、わしの役目です」

 風が耳の側を吹き抜けるのと同時に、がくすぐったそうに笑った。この束の間が、何ものにも換えがたいほどに大事だと思った。


update : 2008/04/26
write : 弓月綺様
site : Garnet〜禁断の廃園〜様

使用お題:●●なんかいらない