月の光に照らされて










 「・・・あ。月」
 縁側から差し込む光。
 足を止めたは、その正体を見つけるや思わず呟いた。
 立ち止まった拍子に、抱えていた樽がたぷんと音を立てた。


 「──今宵は一際、明るいお月様だねえ」

 その、音に呼応したかのように。
 の頭上から、のんびりとした声が降った。


 「士元先生」
 其処にいらっしゃったのですか、と見上げた先は屋根の上。
 鍔広の帽子が、ひょこりと覗いた。
 「若しや、探させちまったのかい?」
 謝罪とも取れる言葉からは、しかし悪びれた色など一寸も感じない。
 「はい、探していました。…これを」
 此方も咎める雰囲気も無く、は持っていた酒樽を上方へ差し出した。

 「酒かい?」
 「呉の父上から届いたものです。先生のお好きな銘柄とお聞きしました」
 「ほう、例のアレかい。毎年、諸葛謹も律儀な男さねえ」
 両手で差し出された其れを、片手でひょいと受け取るホウ統。
 心なしか弾んだ声に、もつられて微笑んだ。

 「そういえば、孔明がそんな事を言っとったような気がするねえ」
 「ええ。本当は叔父上も共に晩酌を…との予定だったのですが」
 恐縮したの声。
 ホウ統は首を傾げ、どうしたね?と身を乗り出した。
 「今日中にやらねばならない執務があるそうで…それで、その」
 足元を見つめ、両手で何やらもじもじと輪を作り、控えめに告げる
 「これこれ。地面に向かって喋っても、此方にゃ聞こえないよ」
 杖で肩先をつついて遣ると、飛び跳ねたようにの背筋が伸びた。
 漸く此方を向いたその顔は、仄かに色付いているのが月明かりにも解る。
 先を促すように、其方をじっと見るホウ統。
 意を決したように、が再び口を開いた。
 「よ…宜しければ、叔父上の代わりに私と…」


 ─酒盛りをしませぬか、と。
 その一言を云うだけの事に、こうも必死になるこの娘。
 やれやれ、と呟いたホウ統の目元が自然と綻んだ。
 「いつの間にやら、呑める歳になったんだねえ」
 早いもんだ、と言いながら腕を伸ばす。
 目の前に差し出された手に、が不思議そうな視線を返した。
 「月見酒たぁ、洒落た趣向だ。近い方が良く見えるもんだよ」
 一拍置いて、言葉の意味を理解したの顔色がぱっと咲いた。
 遠慮がちに細い手を重ねると、よいせ、の一言とともにその身体が浮いた。


 視界が走ったのはほんの一瞬で、跳んだと認識した次の瞬間には瓦の上に腰を下ろしていた。
 先程まで踏んでいた地面が、下方に見える。
 「怖かったら、下ろしてあげるよ」
 どうするね?と云うように。
 未だ繋いだままの右手を、軽く挙げる。
 は笑って、首を横に振った。
 「久しぶりです、高い処は」
 それを聞いて、ホウ統も腰を軽く撫でながら座る。
 「小さな頃は、もうちぃと楽に上げられたんだがねえ」
 「…重たかったですか?」
 蒼ざめる。ホウ統は体勢を直し胡坐を掻いた。
 「そう云う意味じゃあないさね。まぁ…あっしももうちっと、鍛錬が必要だねえ」
 「つ、次は自分で昇りますから」
 「そうかい?まあ、無理はしなさんなね」
 笑って受け流し、樽の栓を開ける。
 気付いたは、杯と空いた手を差し出した。


 「お酌を・・・」
 「何、手酌で十分さね」

 あれ、とは師の横顔を見た。
 幾分硬い声色。恐らく、他の者ではそれこそ、諸葛亮くらいしか気付くまい変化。
 …遠慮、の響きではなかった。

 (──…あ)
刹那、理解する。

 「…?」
 急に立ち上がったに、ホウ統が疑問の眼差しを向ける。
 はその場で回れ右をすると、反対側の瓦に腰を下ろした。
 「…こうして飲めば、お月様がもっと良く見えるのではないでしょうか」
 師の方へは振り向かずに、上を向いたまま言葉を投げ掛ける。
 それ以上は語らぬ小さな背。
 意図する処を見つけたホウ統は、視線を戻し口中で呟いた。


 「…敵わないねえ…」
 「─…?何か仰いましたか?先生」
 背後から澄んだ声が返ってくる。
 いいやと答え、ホウ統は後ろ手に杯を掲げた。
 「こういうのも、悪くないねぇって言ったのさ」
 少しだけ反って、背中を預ける。
 呼応するように、杯が掲げられる気配がした。

 「それじゃぁ、お月様に」
 背中合わせのまま、頭上の杯が触れ合った。




 静かに口布を下ろし、杯を近づける。
 小さな水面に、顕になった素顔が映った。
 今宵の晩酌相手が、何ゆえ背中合わせの酒盛りを提案したかを再び思い当たり、苦笑が漏れる。
 「………仕様がないねえ」
 気付かれぬよう呟き、ホウ統は今度こそ杯を乾かした。
 手酌で二杯目を注ぐと、晩酌の相手が一杯目を未だちびちびとやっているのが視界の隅に見えた。
 「どうかね。父上御推薦の酒の味は」
 背中越しに問うと、苦笑とも照れともつかぬ声が返ってきた。
 「白状すると…よく解りません。半人前の証拠でしょうか…」
 でも、と杯を揺らし付け加える。
 「今宵の酒は、これまでのどれよりも美味しく感じます。味と云うより…」
 「─…お月さんのお陰かねえ…」
 頭上に鎮座する金色を見上げて返す。
 刹那、背中の温もりが重さを増した。
 「…それも、ありますけど……──士元先生、」
 溜め息とともに名を呼ばれ、あいよといつもの調子で返事をする。
 背中の重みが更に増し、僅かにまどろんだ声が夜に響いた。
 「美味しいのは、きっと…士元先生と一緒だから、だと……」

 ─そう、思うのです。

 途切れ途切れに、締め括られた言葉。
 背なの温もりが其の言葉を裏付けているようで、ホウ統は二杯目を乾かし掛けた口元を緩めた。
 「…そうさねえ…」
 ゆっくりと。
 「確かに…お前さんと一緒に呑んだ酒が、例年よりも一番美味かったよ」

 味わうように吐き出した答えに、返事は無く。
 「………おや」
 振り向けば、自分の背を枕にするあどけない寝顔。
 一つ苦笑して、ホウ統は手の中の杯を飲み干した。
 「寝顔を肴に…と云いたい所だけど、風邪ひいちまうからねえ」
 よっこいせ、と掛け声を一つ。
 器用に向きを変え、眠り姫を起こさぬよう背負う。
 「全く…仕様のないお嬢さんだねえ」
 呆れるように発した声の柔らかさは、恐らくの知らぬものであろう。
 今は、それで良い。

 しかし、とホウ統は頭上を仰ぎ見た。
 「お月さんには、色々と見られちまったねえ…」
 苦笑を一つ。
 龍には黙っといておくれよと、物言わぬ月に懇願した。










執筆者 : 夢果実様    サイト : BAROQUE MIX 様

ブラウザを閉じてお戻りください。