俺が蜀に亡命してから早三月は過ぎただろうか。司馬一族の制裁を恐れて、俺は魏国から、当時敵国であった蜀へと逃げた。追手はなぜか来なかった。蜀では、姜維を始め他の年若い武将達も本当に良くしてくれる。


「っはー! 今日もいい汗かいた!」
「夏侯覇殿、その台詞は何だか年寄りくさいですよ?」


鍛錬を終えてばたんと大の字に寝転がる俺の隣で、姜維が可笑しそうに笑いながらそう言う。姜維も息はそこまで乱れていないものの額から汗を流している癖に、なんて返せば私は若いので新陳代謝が良いんですよ、なんてけろりと返してくる。


「……俺さ、世の女はぜーーーったいお前に騙されてると思うんだよな」
「失敬ですね。私だってたまには言いたい事をはっきりと言いたい時もあるんです」


姜維は手に握っていた得物を地面に置くと、胡坐を掻いたまま俺の方へと身体を向けて、秘密話をするようにこそっと小声で話し始めた。


「ところで、夏侯覇殿は、その……どうなんですか?」
「どうって、何が?」


姜維の言いたい事がいまいち分からずに首を傾げると、姜維は一瞬言い辛そうに口を閉じて、それからキッと目を鋭くして「殿のことですよっ!」と急に大声を出した。思わずびくっとして身体を起き上がらせると、姜維は我に返って「すみません」と小さく謝った。


「いやいやいや、別にいいけどさ……何で?」
「鈍いです、鈍すぎます夏侯覇殿」
「真顔で失敬だろ」


姜維は深く息を吐くと、再びきりっとした表情になって「話を聞かせてください」なんて言ってきた。いやいやいや、だから意味不明だって。


「夏侯覇殿と殿は恋仲なんでしょう。いつも仲睦まじいではありませんか」
「いや、まあ恋仲だけどさ……」
「分かりました、直接的な物言いをします」


胡坐から正座へと姿勢を直して座る姜維に、俺もなぜか釣られて姿勢を直す。どんな真剣な話かと思えば、姜維の口から飛び出た言葉は俺の度肝を抜くもので。


「今が昼間で、ここが中庭であることを承知で聞きます。夏侯覇殿は、その……ど、どのように殿と夜を過ごしているのか教えていただけませんか」
「………………、はあっ!?」


あまりに唐突で予想もしない話題に(更に姜維から振ってくるとは夢にも思わなかった話題に)俺は素っ頓狂な声を上げて、穴が開くほど目の前の姜維を凝視した。


「姜維、お前ひょっとして……熱でもあるのか?」
「な、何でそうなるんですかっ! 真面目に答えてください!」


本気で心配しているのに怒鳴られる俺。清廉で真面目な将である姜維が夜の話題なんて出すから、病気か熱かと思ったがどうやら違うらしい。未だじっと姜維を見据える俺に、痺れを切らした姜維がずいっと詰め寄って回答を迫ってくる。だけど……。


「ない」
「……へっ?」
「だから、ないんだって。とそういうのした事」


俺の答えを聞いて今度は姜維が素っ頓狂な声を出した。その表情は豆鉄砲を喰らったという言葉が当てはまりそうなくらいぽかんとしていて、思わず笑いそうになってしまう。


「え、えっ、ええっ、それは本当ですかっ!?」
「いやいやいやいや、驚きすぎだって姜維」


笑いながら肯定すれば、姜維は深刻な表情になって「信じられません」と口にした。俺からすればそんな事聞いてくる姜維の方が未だに信じられないけどな!


「だから殿は……」
「ん? 何か言ったか、姜維?」
「あ、いえ、何でもありません」


姜維がぼそっと呟いた言葉を聞き返すもそう言い退けられてしまう。俺に何かそういう話題の事で相談でもしたかったのだろうが、生憎何も答えられなくて申し訳なく思う。


「姜維、もしかして付き合ってるやつがいるのか?」
「えっ、え、ええ、まあ……」
「うわ、まじかよ。女官が知ったら泣くぜ」
「そんなことあるわけないじゃないですか」


やだな夏侯覇殿ってば、と微笑む姜維。姜維を慕ってる女官が聞いたら倒れるぜと言っても、姜維は真に受けず。それにしても、姜維に恋仲の人物が居たとは驚きだ。いや、これだけ外見も中身も良くて今まで浮いた話が一つもなかったことの方がおかしいのか。とにかく俺まで嬉しい気持ちになる。


「まあ何だ、姜維。そういう事なら関索あたりが快く教えてくれるんじゃないか?」
「関索殿のように出来るとは到底思いませんが……」


一応当たってみますと言って、姜維は武器を手にして部屋へと戻って行った。その場に残された俺は、再び地面に寝転がって。木々の隙間から洩れる太陽の光に目を細めながら青空を眺めていた。


「姜維がなあ…………」


両手を組んで上へと伸びをしながらぽつりと溢すと、その場に誰も居なかったはずなのにそれに答える声が聞こえて、次に太陽の光を遮るかのように頭上に人影が現れた。


「姜維殿がどうしたの?」
「うおっ、!?」


思わず飛び起きると、が「驚きすぎだよ仲権」とくすくす笑う。耳を擽るの笑い声に、自分でも気が付かずに「可愛い」と口走っていた。ふとが笑うのを止めて、きょとんとした表情で俺の方を向いて。ああ、やっぱり聞こえてたかと思って気恥ずかしいような気持ちになる。


「姜維殿が?」
「そうそう姜維が、って何でだよ。姜維じゃなくて。……の事を可愛いって思ってたら、無意識に口から出てた」


徐々に顔に集まる熱を、に気付かれたくない一心で咄嗟に顔を逸らした。いい年してこんな餓鬼みたいな態度ってないよな、と自分に落胆しつつの様子をちらりと横目で窺うと。


「あ……っ、え、と……」


頬を赤く染めて口を開いたり閉じたりするの姿がそこにはあって。小さく「ありがとう」と言葉にするを見ると、胸がじんじん熱くなっていく。まるで取れそうで取れないかさぶたのようにむず痒い。流石に心は掻くことができないからもどかしいことこの上ない。


『夏侯覇殿は、どのように殿と夜を過ごしているのですか?』


ふと姜維の問いが頭の中で再生される。俺は、ちょっとした言葉で照れて何も言えなくなるところとか、はにかむ笑顔とか、のそういう純粋な所がすげえ好きで。を見ているとうまく言えないけど、胸が温かくなるんだ。だから今までそういった行為に踏み切ろうとしたことはなかった。

でもその一方で、俺がその白い肌に吸い付いたら、隅々まで熱い舌で舐め上げたら、本能のままその身体を貪ったら、はどんな表情を見せてくれるのか、どんな声を聞かせてくれるのか、どんな反応をしてくれるのか―――――


(俺は、きっと……ずっと知りたかったんだ)


「仲権?」
「っあ、悪い……ちょっとぼーっとしちまった!」
「それならいいんだけど……大丈夫?」


俺の具合がどこか悪いのかと心配そうな表情で見つめてくるの頭を優しく撫でて「大丈夫」と言うと、は照れたような表情でほっと息を吐いた。俺が考えていたことをが知ったらなんて内心冷や冷やしながら、の話を聞く。どうやらもうすぐ俺が蜀に来てキリのいい時期になるって事で、若い武将だけで宴会を開こうという話が持ち上がっているらしい。所謂歓迎会に近い催しだ。


「急なんだけど、今日の宵に開くことになってるの。来れる?」
「ああ、もちろんだぜ。楽しみだな!」


喜ぶにまた宵に会う約束をして、俺達はそこで別れた。俺は再び大剣を手にして、鍛錬に集中することに決めた。


***


陽が暮れて間もなく、俺の部屋へとが迎えにやって来た。そのまま連れてこられた宴の場では、若手の武将達が俺を待ってくれていた。に勧められて上座へと座ると共に乾杯の音頭がとられて、賑やかな宴が始まった。


「仲権ーっ」
「おっ、と」


宴もたけなわとなった頃、酒が回った武将たちは各々歌ったり踊ったり、あるいは呑み比べをしたりと程よく酔っているようだった。例にもれずも酒に酔っているらしく、子猫のように俺に擦り寄ってきた。


、大丈夫か?」
「んん……、ちょっと、熱いかも……」


瞼を閉じたまま俺に凭れかかってそうぽつりと呟く。俺は周りを見渡して、どうやら抜け出しても問題はなさそうな雰囲気だと心の中で頷くと、を支えて立ち上がり、そっと宴会場を後にした。そのまま、外の風に当たるために回廊を歩く。冬はまだ遠いと言っても、夜の風は少し冷たい。火照った身体でちょうどいいくらいだ。


「ありがとう、仲権……」
「気分は?」
「大丈夫……だけど、」


言葉に詰まるを不思議に思って、「どうした?」と言葉の続きを促すと、は両手で顔全体を覆って今にも消えそうな声で、


「仲権に、こんな酔った姿見られて……、恥ずかしい……」


そんな事を言うから。心臓が大きく音を立てて、気が付いたらの両手首を掴んで、隠していた顔を暴くように回廊の壁へと押し付けていた。露わになったの顔は、酒の所為か羞恥心からか真っ赤になっていて、その両目は涙で潤んでいた。


「や……っ、みないで……!」


一瞬ひどく驚いた表情を見せていたは、我に返ると顔を伏せようとした。俺は片手をの手首から離して、の頬に手を掛けてその行動を阻んだ。が瞬きすれば瞳から涙が一筋零れて、俺はそれを追うように唇で涙の跡を辿る。


「ちゅ、仲権……っ」


が抗議しようと口を開いた瞬間を狙ってその口を己の口で塞いだ。の口腔からか、俺の口腔からなのか、そのどちらともからなのか、さっきまで飲んでいた酒の味がして、更に酔いを高められるような感覚がした。


「っふ、んん……っ!」


はきつく目を閉じて、空いた方の手で俺の胸元を必死に握りしめていた。その行為が愛おしくて、深く口づけていると、が軽く俺の胸元を叩いて。名残惜しさを感じながらも俺は唇を解放した。


「っはあ、はあ……っ」


肩で大きく息をして何とか呼吸を整えようとするを見ると、どうしようもない衝動が込み上げてくる。


……」


普通に名前を呼んだはずの声は掠れていて、が不安げに俺を見上げる。きっと欲の塊のような目をしているんだろうなんて頭の隅で考えながら、もう一度に口づける。


「んっ、仲権、まって……!」


上擦った声で弱弱しく制止をかけてくるを無視して、俺は唇から首筋へと狙いを定めて。剥き出しの白い肌に噛み付くように吸い付けば、の高くて甘い悲鳴が上がる。


、好きだ……好きなんだ、お前の事……愛してる」


今だから言えるのかもしれない。素面ではとても言えないだろう愛の言葉を紡げば、はこれ以上ないくらいに赤くなって、言葉の代わりに俺の頭を抱きすくめてみせた。


には、きれいで白くて純粋なままで居てほしい。そう思っていた事は嘘じゃない。けれど、いつもは柔らかく微笑むその表情が、優しく俺を呼ぶその声が、俺の前だけでは情欲に濡れた表情と甘い声に変わって、俺を求めてくれるを、本当は、





(俺だけに、可愛く乱れたその姿を見せてほしい、と―――――)










執筆者 : 柚月明梨様  サイト : uno×due×tre様



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