「お梅ちゃん、明日は天気が良さそうだね」
「そうですね。綺麗な夕焼けです」




--------------- あなたのそばで-前編:絆、近付き始めて ---------------




 姫は自分の横に控える女中に声をかけた。女中の名は梅と言い、と同い年であるせいか良く話し相手になっている。彼女も姫君と同じように空を見上げた。




 ここ何日もおかしな天候が続いていた。何日も雨が降ったかと思えば今度は風の強い日が続く。そんな天気ではろくに屋外で武芸の鍛錬もできないので、は暇を持て余していたのだった。
 この異常気象に伴って、雨が降ったのにどこの池の水が干上がった、山からは獣の気配が消えたなどという噂も耳にする。城内の者の中にはこの異変をやれ天変地異の前触れだ、神仏の怒りだ、などと言って震え上がっている者も少なくない。



 しかし今日は珍しく穏やかな一日だったので、は久しぶりに剣術の師範の元で己の腕を磨いていたのだった。師範には上達したと言われたが、父である信玄を支える武田の将だと名を挙げるにはまだ早いと思う。




 今日はこんな良い天気だったのだから、おかしな天気が続いたのはたまたまだったのだとは考えていた。




 二人の見上げる天は一面朱に染まりつつあった。カラスがかあかあと鳴きながら山へと帰ってゆく。黒い影が二つ仲良く並んで飛んでゆく様子を眺めながら、はつぶやいた。




「……明日、天気が良かったら遠乗りに行きたいな」
「また急なお話ですね。どうされたのですか?」
「うん、これを読んでいるの。古代の英雄達が馬に乗って大平原を駆け、広大な国土を平定する為に戦ったお話」




 はそう言って部屋の隅に積んであった書物の表紙を梅に見せた。それは、三國志演義。悪天候に暇を持て余していたが暇つぶしになるかと読み始めた物語であるが、すっかり夢中になってしまったのだった。武を誇る豪傑達の真剣勝負、類稀な英知を持つ軍師が巡らせる巧妙な策。そして、そんな英雄達と美しい姫君の間に芽生える恋の物語。
 この姫君は源氏物語のような、ある意味純粋な恋物語にはあまり興味がないらしいのだと言う事は、梅も知っている。




 三國志演義を読んでいたら、触発されて思い切り馬に乗りたくなったとは言う。それにここ何日かの荒天で外に出られなかったから、その分身体を動かしたいのだと。
 しかし、そこまで話した彼女は少し肩を落としてこう続けた。




「誰か供に連れて行かないと外出できないでしょう? 急だから誰か来てくれるかなあ……無理ならいいんだけど」




 は頭をぽりぽりと掻きながらうーんと考え込んだ。外出時にはもちろん供を付けなければならないが、今回のように急な予定でしかも遠出、おまけに重要な用事でないのであれば、なかなか難しいかもしれないというのをは分かっている。
 お梅は物分かりの良い姫君がわがままのような事を言うので珍しく思った。でもたまの、これくらいのわがままなら良いのではないかとも思う。




「でも城の兵の誰かに聞いてみても良いと思いますよ? 供に付ける者がいるか聞いて参りましょう」
 梅のその言葉に、は先程の難しい表情から一変、ぱあっと目を輝かせた。
「本当? ありがとね!」
 では少々お待ちくださいね、と女中はにこりと微笑んでの側を離れた。




「あのー、すみません……」
 梅は兵舎までやってきた。いつもが出かける時には、それなりに腕の立つ者を供に付けているからだ。
 しかし、今日は珍しく人影はまばら。いつもならそこの広場で鍛錬に励むものも少なくないのにどうしたのだろうか。
 そんな中、のために人を捜して中を見回す彼女を真っ先に見つけたのは、真田幸村だった。
「おや、お前は様お付きの……どうしたのだ?」
「幸村殿。ええ、実は明日天気が良ければ姫様が遠乗りに出たいとおっしゃるので、誰か供をと」




 梅の言葉を聞いた若武者は一瞬考えて、こう答えた。
 



「……それなら私が行こう。お館様に一言申し上げれば問題ないはずだ」
「幸村殿が付いてくだされば安心ですね。では私はその旨姫様にお伝えしてまいります」




 梅は姫君の願いが叶って嬉しく思うと同時に安心した。は家臣の中でも幸村を良く頼っているのを梅も知っている。だから供に付いてくれるのがこの若武者とあって、姫君も喜んでくださるだろうと彼女は思った。




 その晩の事。
 信玄は一人で月見酒に興じていた。杯に映る今宵の月は望月、白銀に光る月は夜空を煌煌と照らしている。今度は末の娘のと親子水入らず、ゆっくり酒杯を交わすのもいいかね、など彼は考えた。
 年を取ってから授かった娘、は父の役に立とうと積極的に剣の腕を磨いているらしい。その腕前、最早並みの兵では相手にならぬでしょうと、娘の師範が褒めていた。
 そんな娘だから、親の欲目も相まって余計に可愛く思うのだった。




 そこへ、失礼しますと信玄に呼びかける声が聞こえた。声の主は幸村だ。彼は主君の側にやってくると膝を付き、頭を下げた。
 



「お館様、明日の件でご報告に参りました」




 件の遠乗りの事か、と信玄は察した。それに関しておおまかな事は既に付きの女中から聞いている。




「話は聞いているよ、と遠乗りに行くんじゃろ?」
「は、僭越ながらこの幸村、様のお供をさせて頂きます」
「幸村が一緒なら心配は無用だね。頼んだよ」
 そう言って、信玄は酒杯の酒を飲み干した。彼は、この若武者との仲の良い事を歓迎していた。一族とそれに仕える家臣の絆が深いと言う事は、この戦乱の世に置いて何物にも代え難い物である。
 人の絆の力、決して侮ってはならないものなのだ。




 同じ頃、は一人自室の前の縁側で父と同じように月を眺めていた。明日の遠乗りには幸村が付いて来てくれると梅から聞いた。それが、なんだか嬉しいのだ。
 そういえば二人で出かけた事なんてなかったなとは思った。彼が供として付いて来たのはいつも父との外出、そうでなければ戦の時だったのだから。



 
「姫さん、お元気?」
「わ、びっくりした!」




 屋根の上から急に声が降って来た。が驚いて見上げると、そこからこちらを覗き込んでいるのは武田と真田に仕える女忍者、くのいちだった。
 くのいちと呼ばれる女忍者は何人もいるが、そのうちの一人とは友人の親しくしている。話し方の特徴的な彼女がそうだった。




「こんな夜更けに……あ、お仕事かな?」
「そうそう、忍びには忍びの用事があるってもんです。ま、無事報告は済んだんでお仕事完了って感じで。ついでに姫さんの顔でもってとこでちょいとお邪魔させて頂きました」
「そうなんだ。遅くまでお疲れ様」




 くのいちはいえいえ、と言いながらひょいと屋根から飛び降りると、膝をついてに向き直った。そんなかしこまらなくて良いよと姫は彼女を手招きして隣に呼び寄せる。
 すんませんねえ、と頭を掻きながらの隣に腰を下ろす女忍者。そして彼女は姫君の顔を見て意味深にニヤリと笑った。




「それより、聞かせてもらいましたよ。明日幸村様と遠乗りにお出かけなさるんだってねえ?……もしかして、南蛮の言葉で言う所の“でえと”ってヤツですかい? さすが様は信玄様のお子、大胆ですう!」
 そしてくのいちはを肘で小突いた。こんな光景を女中が見たら卒倒しそうだが、前からこんな調子であったし、そもそも話し相手としてくのいちを見ていたは全く気にしていないのだった。




 はくのいちに言われた事が一瞬理解できず、首を傾げる。
「……え?」
「武田の姫君と真田の若様がご一緒になれば、あたしもまあ色々と将来安心してお仕えできます! にゃはは」
 くのいちは若いっていいですねえ、などと大げさに頬に手をやりながら言う。やっとその言わんとしている所を理解したの頬は瞬で赤く染まった。それは恥ずかしい勘違いだと、手を振って違う違うと全身で否定する。
「……ってちょっと、違うよ!」




 自分はいずれどこかの名のある武将の元に嫁いで、武田の基盤を確固たる物にするのだとは思っていた。夫となる人が強く優しい方なら良いな、なんて事は考えた事もある。
 そんな自分が色恋沙汰なんて。しかも、相手はあの幸村だと。
 確かに幸村は武勇の誉れ高い兵である上、背も高く鼻筋の通った美男子。それだけではなく、護るべきものに対して向ける優しさを持ち合わせている事をは知っている。強さと優しさと容姿を兼ね添えた若武者、だから幸村の事は若い女中達の話に上ることも少なくない。




 それに彼は自分より一つ年上という事で年齢も近い事や、また積極的に武芸の鍛錬を行っているは幸村と会話を交わすことも多かったが、それはあくまでも姫君と良く頼っている家臣の間柄なのだという認識からだった。




 違うと言うを見てくのいちはわざと寂しそうな表情を作った。
「えー? じゃあ幸村様の事、お嫌いなんですか?」
「だからね、そういう好きとか嫌いじゃなくて」
「……姫様、お顔が赤いです。にゃはん」
 くのいちは可笑しそうにの頬を指差しながら言う。からかわれた方はそんな顔を見られたくなくて、頬を膨らませてそっぽを向いた。
「……だって、恥ずかしい事言うからじゃない」
「ま、ゆっくりしてきておくんなせえ。それじゃあたしはこの辺で失礼しますう」




 くのいちはにひらひらと手をふると、一瞬で庭の暗闇に姿を消してしまった。姫君はやれやれとため息をつく。ひやかしに来たのかなんだか知らないが、こんな事を彼女に言われたのは初めてだから。




 自分が恋なんて。想い人だなんて。




 夜風に当たって落ち着こうと思ったが、もしかしたら自分の周りの女中達の中にもそんな目で見ていた者がいるのかも思うとまた心臓が跳ね上がりそうになる。
 さらに困ったことに様、と自分の名を呼ぶ幸村の声と顔がふと思い浮かんだ瞬間、くのいちに言われたような余計な事が頭から離れず、かえって落ち着かなくなってしまった。
 もう寝てしまったほうが早そうだ。




「全く、変な事言うなあ」




 明日この事を思い出さなきゃいいなと思いながら、は床に付いた。思い出したらきっと、変に意識してしまって幸村の顔なんてまともに見られなくなりそうだから。








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