― 想う、心 ―
月の無い夜は、星がより強く瞬く。それを知ったのは、もう何年も前のことだ。月の輝きを愛でることの多い秋だが、凌統にとっては月の無い夜のほうが待ち遠しい。理由はもちろん、かの人との酒宴だ。
特にこの夜に、と示し合わせた訳ではないが、何故かとの逢瀬は新月の夜が選ばれることが多い。初めて酌み交わした日がそうであったからかもしれない。
だが、今凌統はがっくりと気落ちしていた。手元で墨の乾くのを待っている手跡にも、心なしか覇気がない。その元凶は、凌統に下った一つの指令であった。
曰わく。
『若い娘ばかりを狙う賊が横行している。先行する甘寧と合流し、これを討て』
なんでバ甘寧の尻拭いを俺が、と呂蒙に文句を言おうとした凌統だったが、先に釘を刺されてしまった。
「主命だぞ!」
裏に、『そろそろ奴と折り合いをつけろ』との意を感じたのは思い違いではないだろう。主や軍師達の言う、父を手にかけた男とつける折り合いとは、いったいどんなものか。自分はあの男が孫呉に居ることを我慢することで、十分折り合っているつもりだというのに。
墨の乾いた布を細くたたんで、窓辺で待っていた鳥の足に結び付ける。白鷺のようなこの鳥は、の道術によって作られた式神で、二人がどこに居ようと正確に両者の間を繋いでくれる。
月明かりの中、飛び立っていく鳥を見送って、凌統は深い深いため息をついた。
「無理だろうなぁ」
名月を愛でる城での宴も終わり、滞りなく執務をこなせばその日を迎えられる筈だったというのに。新月まであと十日……賊どもを討ち取って戻ってくるには、やや時間が足りない。次の酒宴は流れることになってしまいそうだった。
一方。
夜明けと共に目覚めたは、傍らで小首を傾げて自分を見つめる鳥に気がついた。足首には墨のにじむ布がしっかりと結ばれている。ほどいて手に取り、ざっと目を通す。
曰わく。
『賊討伐を命じられちまったんで、出陣しなけりゃならなくなった。先行してるバ甘寧には荷が重いらしいんで、ちょいと行ってくる。ホントは行きたかないんだけど、主命じゃ仕方ない。
すぐに片付ける、と言いたいとこだが、事態がどう転ぶかはわからないんでね。新月の夜までに建業に戻れるかも微妙だし、とりあえず次の新月は保留ってことで。
また連絡するよ』
いつになく長々と綴られた墨跡に、は思わず笑った。ほぼ半年振りに開く予定だった朔月の酒宴に、相当未練があったらしい。
少し考えて、は寝台を降りた。葛籠を開けて衣装を探す。あれでもないこれでもないと暫く合わせていたが、やがて奥の方から引っ張り出した一つを纏って立ち上がった。両腕に固定された手首から肘までを守る籠手が、その袖にきちんと隠れることを確認する。軽く化粧を施し、仕上げに、その特徴ある琥珀の両目を衣装と同じ色の布で覆い隠した。
染め粉が無いので白い髪まではどうにもならないが、まあなんとかなるだろう。寧ろ、多少目立つくらいのほうが、これからの事には都合がいいかもしれない。
衣をふわりと翻して、は洞府を出た。風が運ぶ声に耳をすませ、情報を集める。やがて目的のものを聞き取ると、風に乗って姿を消した。
建業を出立してから五日。先行していた甘寧と合流してからは三日が経つ。思っていた以上に集まっていなかった情報と、考えていた以上に好転しない現状に、凌統は苛立っていた。
「ったく……なんだって未だに敵さんの本拠すら掴めてないんだっつーの!」
「だから言ってんだろ。面倒な奴らなんだって」
同じ天幕の中、斜向かいに座る甘寧もふてくされている。
確かに厄介な相手だった。
今年は豊作であったし、孫家の施策も功を奏して、貧困に喘ぎ娘を売らねばならないような庶民が無い。そんな中、ある意味人手不足となった楼閣相手に攫ってきた若い娘を売る輩が居る、との不穏な上奏が挙がってきたのだ。すぐに調査隊が組まれたが、どこの地域で多い、というような特色がなかなか出てこない。拐かしのあった時と場所、娘が売られていた店、と細かく突き合わせた結果、得られた結論は『この賊は移動しつつ活動している』というものでしかなかった。
美女を攫い、数名集めたところで売り飛ばし、次の土地へ移る。一つところに長居をしないようなのだ。
移動先を軍師が先読みして甘寧を派遣したものの、時すでに遅く、二人が拐かされた後だった。さらに悪いことに、現れた甘寧の部隊を見て警戒したのか、ここ暫く動きがない。
どこか近くに身を潜めているのか、別の土地へ移ったのか。新たな地での拐かしが起こっていない以上、前者である可能性が高いと践んで、孫家も凌統の追加派遣を決したのであろう。だが。
「……いっそ、もう一人攫われてもらうか?」
ぽつりと呟いた甘寧を、凌統が胡乱な目で見やる。
「んでよ、こう、後つけて行きゃあ自然、奴らの根城にたどり着くわけだろ?」
「で、誰に攫われてもらうわけだい?おたくの部隊にもうちの部隊にも、隆々の強面さんならともかく、見るも儚い美女はいないと思うんですがね」
あんたが女装でもしてみるかい?と凌統に反拍された甘寧は、あー、とも、うー、ともつかない声をあげて黙った。
仕掛けるからには掛かってもらわねば意味がない。しかし、軍で鍛えられた女達では餌にならないのだ。狙われるのは、たおやかな娘たち。比べると、軍に所属する女たちには、その動きに闘う者特有の仕草が現れてしまう。かといって、民の中から囮を選抜して使うわけにはいかない。
凌統は、卓の上の図面に視線を戻した。事態が動かない以上、一度部隊を退くことも考慮しなければならないだろう……賊ごときに負けるようで、業腹ではあるが。
だが、その日の夕刻、事態は動いた。近隣の村々を警戒していた甘寧隊の一人が駆け込んで来たのだ。
「冨春で昨夜、娘が攫われたとの訴えが!」
部隊を退く訳にはいかなくなった。
「お仲間だぜ。仲良くな!」
女は商品。嬲る気は無いが、労る気も無いらしい。賊の男は、腕を掴み、引きずるようにして連れてきた女を、乱暴に投げ出した。女の肩に大人しくおさまっていた白い鳥が、バサバサと騒ぐ。
放り出された衝撃で身体を打ち付けてしまった女は、その痛みに眉を潜めた。
油断を誘うため、受け身をとることも控えて、闘う力のあることを隠しているのはこちらの勝手。だが、痛めつけられれば腹が立つのは当然で。
後で覚えていろよ、と口内で呟く。
暫し遠ざかる足音を追っていたが、近づいてくる新たな二つの気配に気づき、とりあえず怒りを脇へ置いた。
「あの、大丈夫、ですか?」
おずおずとかけられた言葉には答えずに、女は逆に問うた。
「瑛杏さんと葉籃さん?」
「そうだけど……どうしてあたしたちの名前……?」
「賊討伐に加わっている呉将凌公績は、私の友人です」
言外に、彼から聞いたとにおわせる。真実ではないが、勘違いしてもらっていたほうが彼女たちを安堵させることが出来る。のちのちの辻褄合わせも楽だ。
「呉軍の方なんですか!?」
思惑通り、声音が戸惑いから歓声に変わる。だが、上がった声を、唇に人差し指を当てる仕草で抑えた。
「賊たちに知られると困りますから」
「す、すみません……」
小さくなった二人に、今から気をつけてくだされば、と笑いかける。懐から、紙と携帯筆記具を取り出した。
「どちらでも構いません。字は、書けますか?」
わたしが、と答えた瑛杏にそれを渡す。
「私の言うとおりに記してください」
綴られる言葉を、恐る恐る紙にすべらせて、瑛杏が大きく息をついた。
「紙になんて、初めて書いたわ……」
葉籃も、それを覗き込んで目を丸くしている。
「お城では、紙が普通なんですか?」
「まさか。普通は竹簡でしょ」
紙は高価なものだ。長く保存する書物ならばともかく、普通はこんな使い捨てのような真似はしない。
「竹簡では、この子が運べませんから」
渡された書を手慣れた様子で細長く折りたたんで、傍らでじっと待っていた白い鳥に結びつけて解き放つ。飛び立つ鳥を見送る二人に、女が声をかけた。
「あの子は確実に凌将軍のもとへ運んでくれます。貴女方も、明日には家に帰れますから、安心して夜に備えて下さい」
冷たい岩肌に背を預けて座り込む。することが無くなった女は、その時を寝て待つことにした。
その頃。
報告を受けた凌統と甘寧は、動ける手勢を率いて冨春へ急行した。
部隊の指揮を各々の副官に任せ、周囲の探索と情報収集に当たらせる。二人は村長の館へ場を移し、事情の説明を求めた。
昨夕、村は祝賀の空気に包まれていたという。村長の一人娘が、幼いときから心を交わした恋人と華燭の典を挙げる為だ。青年のほうも村民たちの信厚く、次代の長として嘱望される人物であったことから、村中がこの慶事を喜んでいた。おり良く旅の楽師が村を通ったため、祝いに華をと引きとどめ、宴で歌って貰う予定だったのだが。
「その楽師さんが連れて行かれたってワケかい?」
「はい」
「将軍。どうか、どうか春香殿をお助け下さい!あの方は、わたしを庇って、わたしの身代わりに――!」
泣き伏す妻を、昨夜夫となったばかりの青年が宥める。父である村長は、若い者を率いて探索に加わっており、状況説明をしていたのも彼だ。
「私からもお願いします、将軍。その為に必要なことがあれば、できうる限りご協力致します」
深々と頭を下げる夫婦を残し、凌統と甘寧は村長宅を出た。
「聞いてもいいかい、甘寧?」
「……ぁんだよ?」
「なんで女がこんなところを一人で旅してる?」
「……知るか」
「狙われそうな娘のいる商隊や旅行者には護衛をつけること。あんたの仕事じゃなかったっけね」
「だぁーっ!うっせ!全部が全部押さえられるかよ!」
「全部押さえなきゃ意味ないでしょうが」
だからバ甘寧だっつーんだよ、と揶揄る凌統を、甘寧が睨み返した。
「兎に角!俺らの部隊の目ぇ盗んで長距離移動するなんてこたできっこねーんだ。動けて精々、馬で半日。囲って虱潰しにする。そんで女助けて賊どもぶっ潰しゃ、文句ねーだろ!?」
「ま、そんなトコだろうな」
副官を呼んで部隊配置の打ち合わせを、と視線を巡らせた凌統のそばに、白い羽が舞い降りた。
サンからの返事か、と軽い気持ちでその足に結ばれた文を開く。
「なんだそりゃ?」
「大事なヒトからの伝書」
女か!?と騒ぐ甘寧を無視してそれを読んだ凌統は、その内容に己の目を疑った。
「……おい、バ甘寧」
「バカ言うな。何だよ?」
「攫われた春香嬢の特徴、言ってみてくんない?」
「はぁ?なんだ、きっちり聞いてなかったのか?」
訝る甘寧に、いいから言えと凌統が急かす。
「あー……身の丈はこのくらい、白くて長い髪を結い紐で束ねてる。戦に巻き込まれて負った傷のせいで目が見えねぇ。布っきれで傷ごと覆ってる。お供に白い鳥が一羽」
「…………………」
「なんだよ、どうかしたか?」
母と同じ名だな、とは漠然と思っていたが……これは意図的なものだろうか。がっくりと肩を落とした凌統は、『このくらい』と揚げられたままになっている甘寧の手に、自分を愕然とさせた文を押し込んだ。
「読め」
「はぁ?」
言われるままに目を通した甘寧は、内容もさることながら、その最後に記された春香という署名に驚いた。
「連れて行かれた女、おまえの知り合いなのか?」
凌統は、答えることなく甘寧に背を向けた。
「おい!」
「いいからとっとと自分の部隊呼び戻しなよ。遅れたら墓穴掘りだけする羽目になっちまうぜ」
一人でも二十人くらい壊滅させられる実力はあるヒトだからね、と言うと凌統は、振り返りもせずにひらひらと手を振って己の副官のもとへ歩いていく。それを見送った甘寧は、改めて文を見直した。
「……マジかよ」
沈む太陽が、赤さを増して輝く。時間が無いことに気づいた甘寧も、慌てて副官を呼びに走った。
『賊の本拠は抗山中腹、鉄鉱脈跡に。主に宿直施設を根城にしている様子です。
総数は二十名弱といったところでしょうか。
被害者二名は無事。私と一緒に鉱脈の奥に込められています。
月の出まではお待ち致しますので、お早い行動を。遅れること無きよう願います。
春香』
凌統は、自軍の精鋭を選抜して馬を与え、五十の騎馬兵を仕立てて抗山へ走った。甘寧も同じく後に続く。
日没後に移動を始めた彼らだったが、それでもなんとか月の出に間に合い、頼りない月明かりの下、賊徒と向き合うことが出来た。
二十名弱とあった通りの規模であったため、総勢百騎の呉兵の前に、賊はあっさり瓦解する。斬り捨て又は捕縛して、あらかた制圧してしまうと、その場を副官に任せて、凌統は一人、鉱脈跡の洞窟へ向かった。
甘寧は無視だ。
残党を警戒しつつ、気配を探りながらゆっくりと進む。僅かに踏みならされた跡を辿って奥へ行くと、視界の端を、ふわりと舞う紗がよぎった。
瞬間、突き込まれた剣の一撃を、手に提げたままだった怒涛で弾き返す。
的確に急所を狙ったそれに、背筋が冷えた。即座に放たれた二撃目を、棍を繋ぐ鎖でもって絡めとり、押さえ込む。慌てて叫んだ。
「ちょっ……待った、サン!俺、俺っ!!」
封じられた剣を捨て、右手に握り込んだ何かを突き立てようとしていた女は、その声を聞いてぴたりと動きをとめた。
ことり、と首を傾げる。
「公績か?」
攻撃が止んだことに安堵し、凌統は大きく息をついた。
「なんで目隠ししたままなのさ?」
そう。は視界を覆う布を巻いたままだったのだ。俺、危うく斬られるところじゃん、と愚痴る凌統に、は素直に謝った。
「すまない。だが、暗闇で光る私の瞳は、そなた以外には受け入れ難いものだろう。邪妖扱いされて狩られるのは、私も御免だ」
言われて納得した。の瞳は、彼女が人ではないことを浮き彫りにする。凌統自身は気にしたこともなかったので、そのことに思い至らなかったのだ。
籠手に仕込まれた鞘に、凌統の手から返された刃を納めながら、が続けた。
「そなたの匂いはすぐに判ると思ったのだがな。予想以上に血の香が充満しているらしい。鼻が効かなかった」
「俺も返り血浴びてるしなぁ。何人斬った?」
「五人だ。監視が二人。私たちを質にしようと駆け込んで来た者が三人。娘たちには、奥に隠れているよう言ってある。外は?」
「片付いてるよ。こっちの被害はナシ。娘さんたち保護して――」
「おい、凌統!」
引き揚げよう、との言葉を遮られ、凌統は眉をしかめた。五月蝿いのが来やがった。
「凌統、てめえ、ひとに断り無く先に行くんじゃねぇよ!」
「あんたに断る必要が、どこにあるんだい?」
「そりゃ、組んで仕事してる上での仁義ってもんが……お?」
言いつのっていた男が、凌統の傍らに立つを認める。破顔して話しかけた。
「あんたが凌統の女か?」
「……誰が誰の女だと?」
「こいつが勝手に勘違いしただけだよ」
ぼそりと呟いたに、同じくぼそりと凌統が答える。
そうなってくれれば嬉しいけどね、との想いは心の中だけに留めて。
「俺は甘公覇。孫呉の将だ。今回は世話になったなぁ」
二人の様子に頓着することなく名乗った甘寧に、が口を開いた。
「甘公覇。ではそなたが、鈴の甘寧か?」
「おう。ま、今夜は移動に目立っちまうと不味かったんで、鈴は着けてねーけどな」
いつもはずらっと提げてるんだぜ、と笑う甘寧に、凌統が突っ込んだ。
「熊避けみたいなもんだよな」
「ぁんだと!?」
二人は気付かなかった。の口元に、うっすらと冷たい笑みが浮かんだことに。
「そうか。貴様が操を手にかけた男か」
それを聞き咎めた時には、は既に甘寧の背後に回っていた。首筋に当てられた鋼の感触と凍るような殺気が、絶対的な存在感を伴って甘寧の動きを封じる。
「サン!?」
「なにしやがるっ!?」
突然の行動に慌てる二人とは対照的に、は落ち着き払って答えた。
「何を慌てることがある、公績。これは凌操を討った男。そなたにとっては父親の、私にとっては友の仇だ。斬り捨てて悪いことはないだろう?」
聞いたこともない冷ややかな声音に、凌統は動けなくなる。
対して甘寧は、またその話か、と頭をかきむしりたくなった。孫呉に下ったばかりのころにも、凌統に仇と睨まれた。最近漸く、話題に上がらなくなってきていたというのに。
「悪かない訳ないだろうが!だいたい、あんときゃお互い敵だったんだ。戦場での死合いで、殺すなってのは無理な相談だぜ?」
「殺らねば殺られるか。確かにな」
だが、と剣を握る手に力をこめる。
「そうか、と容易く割り切れるものではない。感情というものは、な」
「殺しちゃ駄目だ、サン!」
斬られる、と覚悟を決めかけた甘寧の思考に、凌統の言葉が被さった。
「気に食わない野郎だけど、一応そいつもうちの将だ。私怨で手にかけることは――」
「赦されない、か?それはいったい誰の受け売りだ、公績」
言われてぐっと詰まる。確かにこれは、自分が呂蒙や周喩にしつこく言い諭された台詞だ。繰り返される度に、ふざけるなと反発した。それを自身の口で語ることの、なんと空虚なことか。
冷然と甘寧に刃を突きつけるに、かつて剣舞を装い剣を向けた己の姿が重なる。今、彼女が体現しているのは、凌統の心願だ。
「サン……」
「だが、そうだな。誰の受け売りであろうと、それは確かに正論だ」
言葉を失ってしまった凌統に、が苦笑する。張り詰めていた殺気が、僅かに緩んだ。
「機会をやろう、甘寧」
一つ、聞く。但し。
「返答次第では、ここで斬る」
「――なんだよ」
「貴様にとって、孫呉とは何か?」
殺した男の事を聞かれるのだろうと身構えていた甘寧は、思ってもみなかった問いに面食らった。
「何かって言われても……」
「水賊というものは、より良い船を求めるものとか。実際、貴様は黄祖という泥船を捨て、孫呉という貴船に乗り換えた。新たな船は、死して護るべきものか、それとも、いずれ沈めば乗り捨てるものか、どちらだ?」
この例えは、甘寧の頭に容易く浸透した。共に沈むか、逃げるか。それが船ならば、答えは決まっている。一党を率いる頭として、船と命を共にするわけにはいかないからだ。だが。
「どっちでもねーよ」
「どちらでもない?」
「孫呉は船じゃねぇ。家だ。船は沈んじまったらそれまでだが、家ってのは、ずっとそこにあるもんだろ。壊れちまっても、皆で直してまたそこに帰ってくる。俺は孫呉を住処と決めたんだ。一緒に沈む気もねーし、逃げる気もねーよ」
「……そうか」
暫しの沈黙の後、がゆっくりと剣を下ろす。あっさり退いたことに驚いて振り返った甘寧に、笑ってみせた。
「そなたが再び私の友を害することがないなら、私にそなたを殺す理由はない」
満ち満ちていた殺気も、綺麗に消え失せる。立ち尽くす二人を放って、は鉱脈の奥へと姿を消した。
「おっかねぇ女」
尋常じゃねえぞ、としゃがみ込んだ甘寧に内心賛同するが、凌統が口にしたのは別のことだった。
「敵は斬る、味方は守る、だったっけ?」
「あん?」
「そのうえ、孫呉は家、とはね。あんたがそんな風に考えてたとは、知らなかったよ」
言われて先程の言葉を反芻した甘寧は、全身をむずがゆさに襲われて身悶えした。
「ぅおーっ、柄じゃねぇ!おい、凌統。誰にもチクるんじゃねーぞ。知られた日にゃ、こっぱずかしくって城ん中歩けなくなっちまう」
「さぁて。どうしようかねえ」
吹聴して歩くつもりはないが、呂蒙あたりに聞かせてやれば泣いて喜びそうだと、凌統は思う。そして、そう思える自身の変化に、少し複雑な気分になった。
きっと、否、確実にあのの行動は計算づくのものだ。本気で甘寧を斬る気だったのならば、ひと思いにばっさりやってしまっていただろう。あえてあんな真似をしたのは、親の仇が友となった状況に踏ん切りのつかない凌統の為。甘寧という男を、無理に親の仇という位置に押し込め続けなくてもいいのだと教えるためだ。
結局、甘寧に対して燻っていたわだかまりを、に取り除いて貰ってしまったことになる。年の功だと言われてしまえば、そうなのかもしれない。しかし、こうして実際に自分と彼女の器の違いを目の当たりにしてしまうと、凹むことしきりだ。
『の隣に立てるイイ男』を目指す凌統の道のりは、遠い。
自身の不甲斐なさに、初対面の女に気圧されたことに、それぞれ落ち込む凌統と甘寧の耳に、二つの足音が届く。が――彼女の足音は、どれほど耳を凝らしても聴こえた例がない──保護した娘たちを連れて来たのだろう。
調書を取って、それぞれの家へ送り返して。捕らえた賊も建業へ護送しなければならないし、その前に顛末を記して伝令を出す必要もある。
ゆっくり落ち込んでいる時間は、なさそうだった。
後日。
についてどう報告すべきが悩んだ挙げ句、示し合わせて曖昧に誤魔化した凌統と甘寧が、仲良く周喩の尋問と説教をくらったのは、また別の話である。
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