夜の貴婦人の腕に抱かれ、少しの距離も惜しいと抱き合いながらくすくすと密やかにふたりは笑い合う。
『そんなに聞きたいんですか?』
『ん』
擦り寄りながら拙く答えを返され、彼は微笑んだ。
『仕方のない人ですね。――愛していますよ、私にとって貴女は世界にただ一人のひと、ですから』
くすりと笑んで甘く甘く耳元に囁く声を、彼女は聞いた。
『――――?』
『勿論ですよ』
愚問だとでも言うように即座に彼が肯定する。
嬉しい、と囁いて口付けを贈ると、柔らかく愛おしげに自分を見つめる最愛の人の腕に力がこもった。




海誓山盟




よ」
「はい、なんでございましょう?」
背後から声をかけられ、は振り返って礼を取った。
顔を上げたに曹操はひとつ頷くと口を開いた。
「そなた、元譲をどう思う?」
「夏候惇様、でございますか?……大変に優れた、尊敬できる武将と存じますが」
「それだけか?」
「?」
それ以外に何が?とでも言いたげには首を傾げた。
「つまらぬ。つまらぬぞ、
「はぁ」
つまらなそうに顔を顰めた曹操を見つめ、は悩む。
他になんと答えればよいかわからないのだ。
「そもそもそなた、いつまで待つつもりだ?」
「いつまで、とは……私の待ち人のことでございましょうか?」
「そうだ。そなたがここに来て随分経つが、何の音沙汰もないではないか」
何の音沙汰もない――それはたしかに否定できない。
けれどその訳を、は十分に理解している。
が待ち人の名を明かしてはならないと自分を厳しく戒めているのと同じなのだ。
彼を愛するがゆえにその名を明かさぬと同じく、を愛するがゆえに彼は何の連絡も取ってこないのだ。
蜀の将の一人…しかも劉備に意見できるほどの将とただならぬ仲と知られれば、ただでは済むまい。
ましてや、目の前にいる曹操が欲している人の一人、趙雲、その人なれば。
「……それでも、私にはあの人を信じて待つことしかできませぬゆえ」
いくらでも待つ。仮に今世で再び見えることがなかろうと、待ち続ける。
この、胸にある秘愛に誓って。それだけは、揺ぎ無く思う。
微塵の迷いすら見せずに言い切るに曹操は今回も失敗か、と考える。
これはもはや強引に事を運ぶべきか、とも思うが、何故かそれはあまりしたくないのだ。
「勿体無いのう…そなたならば、たとえ子持ちであろうとも構わぬ、と言う男は多かろうに」
「私のような女に心を傾けるような者はそうおりませんでしょう」
なんとも自分を過小評価するものだ、と曹操は頬を掻く。
将兵の中にどれほど想いを寄せる者がいると思っているのか。
目の覚めるような美女というものではないが、目を引く女なのだ、は。
見た目の美しさではない、形容し難いうつくしさがある。
それに惹かれるが、皆が皆、言い出せずにいてが認知するに至らないのだ。
の、待つ人がいるのだという態度を崩さないことと、それぞれが互いに牽制し合っていることが影響している。
その、牽制し合う人物の中には夏候惇も含まれる。
誰にも心を向けなかった従兄弟がようやく見初めた女。
それが、想う人がいる女とは皮肉だが。
だがこの時勢、想い人が迎えにいつまでも来ないというのはつまり、もはや生きていないのでは――。
そう思えば、従兄弟の想いの成就も可能だろう。
だからこそ曹操は事ある毎、会う毎ににそれとなく夏候惇を薦めていたりするのだ。

曹操と、それぞれが物思いに耽っていると、慌しい足音が近づいてきた。
聞き覚えのある足音に、またか、とは思う。
「……放り出しておいでだったのですか?」
苦笑とともにそう問えば、曹操は逃げ出そうと踵を返していた。
しかしその先に、青筋を立てた夏候惇が立ち塞がる。
「観念するんだな、孟徳」

助けよ、という言葉はの方を振り向いた曹操の目に映った人物の姿に、飲み込まれた。
苦笑するの隣に司馬懿が立っていたからだ。
「大人しく執務にお戻り頂きましょう」
そう司馬懿が告げるや否や、ぐわし、と襟首がつかまれる。
誰と問う必要もない。夏候惇だ。
本来ならば咎められる行いであるが、それを目撃した武官も文官も女官も、またか、と思うだけである。
執務から逃げる曹操を探す夏候惇と司馬懿は、普段からよく見られていたからだ。
他の武将たちが曹操捜索に駆り出されることもあったが。
「きりきり済ませて頂きます」
そう言いながら、じたばたと暴れる曹操を夏候惇から渡された司馬懿は、その背を押しながら去っていった。

「……また何か言っていたんだろう」
「相変わらず、です」
「まったく困ったものだ。孟徳の言うことなど気にするな」
苦笑したまま頷くを見つめ、夏候惇は溜息をついた。
曹操が色々画策していることは夏候惇も知っている。
その思惑の中に、今は限定的に魏に籍を置くを婚によって完全に魏の人間としたい、というものがあることも。
そして、がそれに従うような女ではないことも。
以前、夏候惇は決定打―おそらくはは気付いていないだろう―を受けている。

あれはいつだったろうか。
甄姫が退屈しないように、という、曹丕のらしくもない命を受けたが甄姫と話をしているときだったと思う。
とは言っても、夏候惇が同席していたわけではなく、たまたま見聞きしてしまったようなものだが。
話、というよりはもはや惚気合いのようなそれに、衝撃を受けるよりも先に悟ってしまった。
甄姫でさえも思わず頬を染める、その甘やかな表情と声音。
何も言う必要はないほど、の内なる想いを雄弁に語るそれ。
が心を寄せる、その幸運な男以外にを得ることは不可能なのだ、と。
どう足掻いたとて、その男に勝ることはないのだ、と。
とはいえ、夏候惇としても早々に諦めきれるような想いではない。
けれど、が得るはずの幸せを壊してまで手にしたいとは思わない。
そう思わせる何かがにはあるのだ。
どういうわけか何の違和感もなく同席していた張コウは、美しい!などと言って蝶を飛ばしていたが。

そこまで思い出して、夏候惇は溜息をついた。
なぜああまで違和感がないのか、夏候惇は不思議でならない。
夏候惇の溜息に、お加減が悪いのですか、と案じてくるにゆるく首を振り、ここに留まった本題を伝える。
「次の戦には、お前も出るよう、命が下った」
「え?」
「俺の副将としてな」
驚きに言葉もないを見つめながら、夏候惇は更に言葉を紡いだ。
「お前のことを煩く言う輩が出てきたからな」
その智と武を買われて許昌に来ていながら、はあまり、というより、ほとんど戦に出ることがない。
それに係わらず、曹操や他の主要武将がなにくれとなく構っていることに対する嫉妬であることはわかっている。
だが、それを退け続けるのは難しい。退け続ければ更なる嫉妬を招き、あらぬ噂を立てられるかもしれないのだ。
よって、今回の戦への参加は曹操にとってもに近しい武将たちにとっても、あまり気の進んだものではなかった。
それをに伝えることはないが。
「次は蜀との戦いだ。お前に限って不備があるとは思わんが、準備も鍛錬も怠るなよ」
そう言って夏候惇は曹操の目付けを勤めるべく、曹操の執務室へと向かった。

「次は蜀との戦だ」…その言葉ばかりがぐるぐると脳内を巡る。
蜀には愛しい人がいるのに。
なのに、無理だとも出来ないとも言えない。
たとえ迎えが来るまで、という限定的なものであろうと、今、魏軍に籍を置くがゆえに。
どうして、どうして私の望みはいつまでも叶わないの?
そんなに大それたことを願っているわけではないのに。

望むは、ただ一つ――愛しい人の傍にあり、共に生きること

それだけ。ただ、それだけなのに。
願うようにはいかないことが、とても切なく悲しい。



重い足取りで邸に戻ったを迎えたのは、小さな足音を立てて駆け寄ってくる、稚い男の子。
嬉しそうに勢いよく抱き付き、を見上げて満面の笑みを浮かべた。
幼子の柔らかな髪に指を滑らせ、なんとか迷いを振り切る。
くよくよと思い悩んでいる暇も、嘆いている暇もない。
ましてや、泣いている暇もありはしない。泣くのは彼の腕に抱かれてからだ、と決めている。
今はこの幼い命を守り抜くことを、第一に考えなければ。
は慈愛に満ちたやんわりとした笑みを浮かべながら、その頭を撫でる。
応えるように輝くような笑みを浮かべ、幼子が口を開いた。

「おかえりなさい、ははうえ!」







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