『……待ってるわ。貴方が迎えに来てくれるまで、ここで』
『必ず。必ず迎えに来ます』
『おばあちゃんになっても待っててあげる』
『そんなに待たせるつもりは、ないんですけど』
趙雲が思わず溜息をつくと、くすくすと笑って女が抱きついた。
それを難なく支えて抱きしめると、女は身を摺り寄せ、愛してるわ、と耳元に甘く柔らかな声で囁いた。
すぅ、と閉じられていた瞼が上がり、強い意志を持つ瞳が現れる。
口元には、蕩けるような笑みが浮かんでいた。
「…………」
囁くように落とされた言葉は、囁いた本人の耳にすら届かないものだった。
その言葉の羅列は心を甘く優しく満たす、世界に唯一つのもの。
そっと目を閉じれば容易く浮かぶ、微笑を浮かべるひと。
会いたくても、今はどうしても会えないひと。
「愛しています」
万感の想いを籠めて、まなうらの最愛に告げる。
まなうらの最愛が、綻ぶ花のようにふんわりと微笑んだ気がした。
もう一度告げて、趙雲は起き上がった。
海誓山盟
山と積まれた執務を済ませ、一息をついた趙雲は懐の物を取り出した。
上質の布を払えば、それに包まれていた簪が姿を現す。
玉が数連連なり、文様が掘り込んであるだけという、ごく控え目な装飾の、しかし精緻で繊細な意匠。
彼女と別れるときに預かった、今は亡き彼女の父が母に贈ったという形見の簪。
「今あげられる、私の一番大切なものだから、再び見えたときに返してね」と手渡されたもの。
手に取ると、しゃらりとかすかな音を立てる。これを髪に挿した彼女は大層美しかったのを思い出す。
いや、飾らずとも彼女はうつくしい。今、彼女は離れた年月だけ、更にうつくしくなっていることだろう。
傍でそれを見ることが叶わないのは切ないが、再び見えることを思えば堪えられる。
うつくしい彼女を腕に抱くことができるのは自分だけなのだと、強く思う。
変わらぬ、いや、さらに深まる想いが、彼女と同じであることを知っている。
この心が変わらぬように、彼女の心も変わることがない。それを疑っているわけではない。
しかし、趙雲には気がかりなことがある。
彼女が、意に染まぬことを強いられてはいないだろうか、と。
それによって、悲しく辛い思いをしていないだろうか、と。
趙雲を魅了してやまないあの笑みが、途切れてはいないだろうか、と。
どうかどうか、彼女が心安くあるように、とそればかりを願う。
ある村に身を寄せたとき、彼女と話し合い、お互い納得して離れた。
平和な世であったなら、その村に骨を埋めるのも良いかもしれないと思える、穏やかな人々が住む、静かな村だった。
その村は、やがて魏の領になった。
そのときから、彼女たちとは会っていない。それどころか、連絡すらも。
趙雲が魏に行くのは危険であるし、もし露見すれば彼女と彼女がいる村に迷惑がかかり、危険に曝されるだろう。
最悪、彼女が利用されたあげく殺されることも有り得る。
彼女の安全を第一に考えると、連絡することすら恐ろしいのだ。
ゆえに、会いたいと、声を聞きたいと、抱きしめたいと、思う心を趙雲は何とか宥めていたのだった。
それから程なくして村が賊に襲われた、とその村の長の息子の一人から知らせを受けていた。
近隣を荒らしまわっていた賊に襲われ、討伐軍が着くまで持たなかったのだと。
しかし戦える者の少ない村と思えないほどの善戦を見せ、最小限に抑えられた被害もまた、到着した将を驚嘆させた。
その指揮をとったのは、彼女であった、とも。
そして彼が持ってきたものに、冗談ではなく目の前が暗くなった。
想いを共にするのではなかったのか、と。
それともまさか、形見にせよとでもいうのか、と。
彼が持ってきたものは彼女が一番得手とする、趙雲の得物と同じ槍だった。
それは彼女の祖父、母、彼女と受け継がれてきたものであった。
しかし詳しく話を聞いて、安堵と同時に、愛おしさが胸に満ちた。
曰く。
どれほど遠く離れても心はいつも傍に、ただそれを誓うためにこれを貴方の元に送る。
つまり彼女は、これより先、いかな理由があろうとも槍を持つことはない。
趙雲が彼女を迎えにいき、その隣に立つとき以外は。
趙雲を待つと言った彼女を村から連れ出したのは、夏候惇を従えた曹操だった。
討伐軍を指揮していた将に一度は丁重に断ったが、報告を受けた曹操が自ら 説得に訪れたとなってはそう断れるものではない。
ましてや、快く受け入れてくれた村は、彼女にとっても守るべきものであった。
村が遭うであろう禍を思うなら、断りたくとも断れるものではなかった。
そう。趙雲が愛してやまないひとは、今、許昌にいる。
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「趙雲殿は、想う方がいらっしゃる、のではないでしょうか…」
姜維は偶然見てしまった光景を思い出し、控えめに口を開いた。
愛しみと慈しみを湛えた、常よりもさらに柔らかで、甘やかな表情。
彼に想いを寄せる女官でなくとも、たとえ同性でも見惚れてしまうようなそれを思い出す。
事実、姜維は気付いた趙雲に声をかけられるまで、見とれてしまっていたのだった。
「姜維?」
「趙雲殿は極稀に、えもいわれぬ優しい顔をして、遠くを見ておられることがあります」
「ならどうしてそう言わないんだ?言えば殿も無理には見合いをさせようとはしないと思うが?」
「もしかしたら……」
そう言ったきり、姜維は口を閉ざした。
「うん?なんだ?言ってみろ」
「……亡くなっているのでは、と思うのです」
「それは…」
今の時勢、そして趙雲の気質を考えると、ありえない話ではない。
むしろそう考えたほうが、かえって納得できる。
心に棲ませる女がいるのに他の女をなど、とでも思っているのかもしれない。
それがすでに亡き女でも。
いや、だからこそその想いは昇華し、神聖で侵し難く、美しいものとなってしまう。
「だから、殿がどんなに見合いをさせようとしても応じない、のか」
「…真偽のほどはわかりません。ただ、そう感じただけですので…」
「殿に伝えておいたほうがいいんだろうか…」
「教えてくださるとは思いませんが、一度お聞きしてからのほうがいいかと思います」
伝えるにしても確かでない情報は好ましくない。
たしかに姜維の考えには頷ける。だが。
「口を割らせるのは難しかろうな」
趙雲という男が内に秘め、大切に仕舞い込んでいる想いを暴き出すのは。
そうやすやすと、そういったことを話すとは思えない。
それに誰にも…そう、劉備にすら告げなかったことならば。
やれやれ、と溜息を零す。
「聞いてみるだけだぞ」
「はい」
お願いします、と姜維は頭を下げて立ち上がり、室を出て行った。
趙雲の室へ向かう道すがら、どうやって聞き出したものか、と馬超は頭を悩ませる。
うっかり怒らせでもすると、諸葛亮みたいににっこりと怖いこと言ってくれるんだよなぁ、とごちる。
訪いを告げようとしたところで、中から話し声が聞こえた。
気配を殺し、息を潜めて様子を伺う。
「…では……は………なの…」
「……さま………辛……」
途切れ途切れで何の話なのかさっぱりだが、その声は憂いと案じる響きを帯びている。
もっとよく聞こうとした瞬間、漏れ聞こえた言葉に馬超は扉を開け放っていた。
同じように目を丸くする室の主と護衛兵の一人。
趙雲はぱちぱちと何度か瞬き、話をしていた護衛兵を下がらせて穏やかに問いかけた。
「どうしたんですか?」
「何の話をしていた?」
「貴方には係わりのないことです。彼の故郷のことですから」
「魏、と聞こえたぞ?」
「ええ。ですが彼は、故郷が魏の領になったときから一度も帰っていませんよ?」
「……誰を案じていた?」
「そこも聞こえていましたか」
矢継ぎ早に繰り出される問いかけに答えながら苦笑を零す。
いずれ誰かに聞かれるだろうと思っていたが、それが彼とは。
これもまた、因果というものだろうか。そう思いはするが、趙雲の表情は崩れなかった。
「ああ。名前までは聞こえなかったが」
「聞かなかったことには」
「できないな」
即答され、趙雲は苦笑を深めた。
「他言しないと誓ってくださるなら、お話しましょう」
「殿にも、か」
「ええ。そうでなければ、お教えできません」
「……わかった」
「私が案じていたのは――」
趙雲がそう言いかけたとき、いささか慌てたような訪いがあった。
火急の用向きであるなら、と話を中断して室内に入るよう促す。
「趙将軍!あ、馬将軍もおいででしたか」
「どうした?」
「魏に動きがありました。至急軍議を行う、と仰せです」
「……わかりました。すぐに向かいます」
他にまだ伝えなくてはならないだろうと、礼を言って下がらせる。
趙雲は立ち上がり、私たちも行きましょう、と馬超を促した。
「逃げは許さんぞ」
「はいはい、わかりました」
そのまま逃げられてはかなわん、と釘を刺してくる馬超に苦笑しながら趙雲は答えた。
足を急がせながら馬超は趙雲を盗み見る。
真っ直ぐに前を見る趙雲が、ふ、と表情を変えた。
変えた、と言ってもごく微かで、そうとわかる者は少ないだろう。
そのまま盗み見ていると、趙雲は懐を押さえた。そ、と柔らかな仕草で撫でるようにして何かを辿る。
懐に何が?――そう思っていると趙雲の唇が微かに微かに動いた。
「――」
ともすれば聞き漏らしてしまいそうなそれを、馬超の耳は拾い上げた。
落とされた人の名は、なんと柔らかく甘やかな響きを帯びるものか。
聞くだけで、どれほど愛しんでいるか容易く理解できる。
――そうか。これが趙雲の、内に秘めたる想い、か。
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