ひと時、何事もなく収まっていた蜀の土地も、また喧騒に巻き込まれていた。
何やら嫌な動きを察知して、迅速に軍を編成する。
その中に、の姿もあった。
「気を付けて行ってくるのよ、」
「殿、お気を付けて」
馬上に居るに声を掛けるのは、心配そうな表情の尚香と陸遜だ。
それに対し、はやわらかな笑みを崩しはしない。
そうすることで、見送る側も落ち着くことを知っているから。
「大丈夫ですわ、行って参ります」
そう言って前を向いた視線の先には、父親に送り出されている二人の少女が居る。
凛とした娘に対し、不安が消えない父親は落ち着かない様子で。
先ほどからしきりに声を掛けては、いろいろと確かめている。
「もう別れはいいのか?」
「ええ、私はいつでも出れますわ」
すっとの横に並んだのは、同じように馬に乗っている太公望だ。
彼も今回の戦に出る。
そしては彼の指名で、軍を率いることになっていた。
いうなれば、の実力を試すため、だ。
「全く・・・人の子は先が思い遣られる」
ため息と共に吐き出された言葉は、前方に向けられていて。
漸く納得したらしい親から離れて進軍を始めた先陣に対してのものだ。
何度も言葉を交わし、約束事をするというのが理解できないらしい。
「ですが、こういう風に強い繋がりを作っていくものですわ、人は」
「ふん」
ふいと視線を逸らした太公望に、は苦笑するしかない。
あまり人と関わりを持たない仙界の少年は、周りを信用していないのだ。
しかし信頼に値する関係を築くことが、後々心強くなることを、知って欲しいとは思う。
そしてそれをどうやって伝えるのかも、問題だ。
まずは己自身を信じてもらえなければ始まらない。
先陣の進軍に従って、ぞろぞろと兵が動き始めた。
最後尾に居ると太公望は、ゆっくりと自軍を動かしていく。
最後にちらりと後ろを振り返ると、陸遜と尚香がじっとこちらを見ていた。
二人に軽く頭を下げると、真っ直ぐ前を見たは馬の手綱を引いた。
進軍経路の途中で怪しげな集団を発見し、蜀軍はその場で陣を張った。
相手の動向を窺っていると、抵抗している人間を馬車で連れ去ろうとしている。
異形の軍隊に連行されている人間を助けるため、各軍は迅速に展開していった。
「霧、ですわね」
進軍を始めて間もなく、辺り一帯が霧に包まれた。
そのせいで視界が利かなくなり、敵の位置が正確に掴めない。
無闇に動くと危ないと悟ったは、己の軍を止めた。
「どうするつもりだ?将軍」
声のする方角や、気配で誰がどこに居るのかは大体の察しが付く。
それでもあまりに大勢で剣を振るうには、危ない。
配下には一個隊で円陣を組んだ状態で動かないように指示を出す。
背中を仲間に預けていれば、間違っても切りつけることはないだろうと判断して。
「そうですわね・・・・・・」
霧が張り出す前、は敵の位置を大まかに確認していた。
雑魚の数は多いけれど、頭を潰してしまえば、それで済む。
何か呪術的な霧は風を起こしても意味がないだろうと、安易に想像できる。
ならば、あまり手段を選ぶことは出来ない。
敵からしてみれば、こちらの姿ははっきり見えているようでもあったから。
「少し荒療治でしょうが―――」
手にしていた細剣を鞘に戻すと、鐙に取り付けていた弓矢を引く。
敵が見えていた方角に向かって、数本、連続で射た。
小さな声が上がったと思えば、複数の殺気が集中したのが分かる。
「確かに荒療治だな」
「ですが、打破は出来ますわ」
小さく笑ったのが聞こえ、も少し苦笑する。
霧が蔓延している場所で馬上からは戦い難く、は馬から降りた。
そして数歩進めば、瞬く間に周りが敵の気配で埋め尽くされる。
じりじりとそれらが迫ってくるのを肌で感じながら、は剣を抜いた。
「期待以上の働きだな」
「ありがとうございます」
門を守っていた敵将を倒せば、霧の掛かっていない場所に出た。
そこで馬車を奪還すると、囚われていた明智親子と手を組む。
感じるものが居れば分かる怪しい気配の漂う方へと軍を進め、霧を操っている者達を撃破する。
それは、他の軍が付いて来られないほどの速さだった。
霧が晴れたことで、敵の陣営が見渡せるようになった。
そのことで見方本陣へ大軍が押し寄せようとしているのを防ぐために来た道を引き返す。
その途中で、太公望がに対し、感心したような言葉を漏らした。
「力がなければ頭で補う、か」
「ええ。そうしなければ、戦いの中で生きてはいられません」
馬を駆りながら、二人は話す。
伝令の話では、敵側に援軍が来たとの報せも入っていて。
本陣の防衛に当たっている味方は少なく、急がなければいけなかった。
援軍などを見越していたは自軍を複数に分けて配置していた。
本陣近くと明智親子の守り、そして自分に付いて回る者、と用途に応じて。
そのうちの本陣付近に残していた副将からの伝令が、援軍の知らせだった。
漸く本陣手前まで戻ると、そこには酒池肉林を企む董卓の姿があった。
女の将兵が多く集まっていたこの戦場に、気を高ぶらせている。
その男の矛先が女性兵へと向かっているのを見止めると、は馬を蹴った。
「すみません、太公望様。お先に行かせて頂きますわ」
言うや否や返事を待たずに馬の速度を上げ、董卓軍の中へとは切り込んでいった。
好みの女を見つけたのか、えげつない笑みを浮かべ兵の手を掴もうとしていたところへ。
その間に突っ込むように馬を走らせ、ぶつかる直前には馬から飛び降りた。
ひらりと舞って地面に足を付けるのと同時に、董卓へ剣を振るう。
怯えていた女性兵の身体を己の背後に庇うようにして。
「なんだ?貴様は」
「ここに居る女性の方々に手を出すのは止めて下さいませ」
邪魔をされて思いっきり顔を歪めた董卓に、はあっさりと切り返す。
その顔に、普段と何も変わらない笑みを浮かべて。
「ならば貴様がわしと共に来い」
「丁重にお断り申し上げますわ」
に向かって伸ばされた手を、数歩下がることで避ける。
細剣の切っ先を董卓へ突き付けて。
「私はもう、たった一人の方のものですから」
そう言って微笑んだは、とても綺麗だった。
真っ直ぐに相手を見る漆黒の瞳は、自信に満ち足りた光を放っていて。
その視線だけで、敵を圧倒してしまうくらい。
「では力尽くじゃ!」
背中に庇っていた兵を離れさすと、は真っ向から董卓に対峙した。
敵は取り逃したものの、明智親子を救出して、全軍成都へ引き返していた。
帰れば盛大な迎えが待っているだろう。
「人の子とは面白いものだな」
「そう、でしょうか?」
心底面白そうに笑っている太公望を見て、はきょとんとする。
何かそう思うようなことがあっただろうか、と思い返して。
それでも何も思い付かない。
「ああ。理解に苦しむことばかりだ」
特に自分の身を省みず他者を助ける辺りがな、と太公望は呟いた。
その声は小さ過ぎての耳には届いていない。
相変わらず首を傾げて、不思議そうにしている。
「私達は、ただ一人で戦うには弱過ぎますから」
そう、人間は一人だけでは弱いものだ。
太公望達仙人のように特別な力や術など持っていない。
己が智略、己が武、だけで生き抜いて行かなければいけない。
「ですから、どなたかと共に居るのです」
助け合えるように、支えあえるように。
強い絆で繋がっている人間同士は、決して一人では出来ないことをやってみせる。
一人では一人分の力しか出せないものが、二人では三人分も四人分も強くなる。
信頼し、互いを大切にして、愛しむ心を持っていれば、咲き誇るものがある。
「手を取り合って歩いていける方の存在は、素晴らしいものですわ」
例え離れていても、切れることがない絆。
互いを信じる心があれば、何事にも負けないで生き抜いていける。
「人の子とは、そういうものか―――」
やはり、理解に苦しむな。と太公望は笑った。
「おかえり、」
「ご無事で何よりです、殿」
「ただいま戻りましたわ。尚香様、陸遜様」
成都に無事帰還して、を真っ先に出迎えたのは尚香と陸遜だった。
一頻り無事だと交わすと、尚香は他の人を労わりに行く。
至るところで皆が無事を確かめているのを、陸遜とは二人で見ていた。
「どうでしたか?」
「少し、認めて頂けたようですわ」
目を細めてそう聞かれると、はそっと陸遜の耳元に口を寄せた。
本人にしか聞こえないような小声で、くすりと笑みを漏らす。
それに陸遜も満足したように微笑む。
「怪我は、ありませんね」
「はい、大丈夫です」
身体の端から端までを確かめるように見られて、は少し頬を染めた。
怪我がないと分かると、陸遜はの腕を引く。
軽く引き寄せられたは、そのまま腕の中に収まった。
髪を梳く指を感じながら、目を伏せる。
「次は共に行きましょう」
「あら・・・陸遜様は私のことを信じて下さっていないのですか?」
「いいえ」
悪戯めいた声音で問い返してみれば、すっぱりと即答が返ってくる。
それを予測していたは、くすくすと楽しそうに笑った。
陸遜も気を悪くしたようでもなく、ずっと髪を梳いている。
「折角共に居るのですから―――離れていたくないだけですよ」
「私もですわ」
この異世界に来たばかりの頃、仕方がなかったとはいえ離れていたことが傷になっている。
会えなくなるのではないか、無事で居るのか、そんな不安ばかりだったから。
そのときできた小さな傷を埋めるように、魔王を倒してからはずっと一緒に居る。
手の届く距離に居る互いの熱を、確かめるようにして。
そうして二人が居るのを、見ている瞳があった―――――
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