どういうことか、遠呂智勢力は衰えることを知らない。
寧ろ、日に日に強くなってきている節がある。
腹心だった妲己が走り回っていることも、清盛という人物が遠呂智復活を企んでいることも。
淀んだ空気を更に、不可解な形に歪めてしまっているようで。
明智親子を救出してから一息吐く間もなく、また攻め込まれてしまって。
防衛に徹しつつ、反撃の機会を窺っている状態だ。
戦に出ていない面々は、送られてくる報告でしか現状が掴めない。
ただ、今回の敵は清盛だということは確かなようだった。
戦に出ていないは、手持ち無沙汰な日々だ。
自分達の国に居るときであれば、しなければいけない仕事は山ほどあった。
けれどここは他国で、手伝えることは殆どない。
戦場の状況を聞きながらも、動けるような立場でもなく。
いつ何が起きてもいいように、身体を動かすことだけは怠らない。
人質になっていたときとは、そういう部分が違う。
あの時は陸遜や仲間の無事を祈って、ずっと内側に篭っているだけだったから。
「殿」
庭の一角に座っていたは、呼び掛けられて振り返った。
誰なのかは確認しなくても声だけで分かる。
己の、一番大切な人。
この人が居るから以前もいまも、この屈してしまいそうな世界でも立っていられる。
「陸遜様、どうかされましたか?」
「いえ、少し休憩を」
と違って陸遜はこちらでも忙しく走り回っている。
蜀の軍師と作戦を練り、また勉強して。
自分達の持っている情報を交換しては、呉にその報告をするのも役目だ。
「何か、変化はありましたか?」
「それが目立って何も変わっていないんですよ」
困ったように笑う陸遜は、ここのところよく見ている。
呉で周瑜や呂蒙と話していたときも、こんな顔をしていた。
こちらに来ても、根本的な部分では何も変わっていないのだと、分かる。
「諸葛亮先生が戻られたら、少しは変わるのかもしれません」
彼の敬愛する天才軍師の名前が出て、そうですね、とは頷く。
あの常に何年先も見通しているような諸葛亮が居れば、話し合いに変化が出るかもしれない。
でもその人はいま、この場所には居ないのだ。
「少しの間、眠られますか?」
疲れきった表情の陸遜を見て、は問い掛ける。
あまり寝ていないのだろう、目の下には薄っすらと隈が浮いていて。
いつもは光を放つ瞳も、少し翳ってしまっている。
「暫くしたら起こしていただけますか?」
「はい」
が長時間座っていても楽な体勢になると、その足の上に茶色の髪が散らばる。
寝心地のいい場所を見つけると、陸遜は寝息を立て始めた。
それを確かめてから、はいままで膝の上に掛けていたうす布を陸遜の身体に掛ける。
「おやすみなさいませ、陸遜様」
そっと囁いて、自分のものとは違う茶色の髪を梳いた。
それから、戦地の報告書には厳しい戦況が書かれていた。
本陣を焼き討ちされ、味方の足並みが崩れてしまったという。
その上、攻撃の効かない影のような兵まで出現しているらしい。
その伝令が届いてから、暫くは会議が続いていた。
援軍を出すのか、それとももう暫く様子を見るのか、そんな内容の。
当然のように陸遜はその会議に出席し、はその外側に居た。
自国では一応軍師の立場にあっても、こういう場面ではまだ経験が浅い。
それに例えが出れなくとも、陸遜が意見を出してくれていて、不便はなかった。
何日も続く軍議は神経も体力も疲弊する。
その間、は女官の仕事を手伝ったりしていて、何度か軍議の場にお茶を運んでいた。
そこで目にするのは、とても疲れが溜まっている顔だ。
もちろん陸遜も例外ではない。
けれどと目が合えば、小さく笑っていた。
「陸遜が心配?」
庭を一望できる回廊の一角で立っていると、尚香が来た。
苦笑して頷けば、彼女も、そうよね、と言う。
尚香の夫君も連日続く軍議に出ているのだ。
この国の主なのだから、仕方のないことだけれど。
「尚香様も、劉備様がご心配なのでは?」
「そりゃあね。でも、出来ることがあるんじゃないか、って思ってるから」
話し合いに出ていないからこそ、自分達に出来ること。
それは疲れを取る手伝いをすることだろう。
話を聞いて労わって、少しでも休めるように場を整える。
「は、甘やかしてればいいのよ、陸遜を」
「甘やかす、ですか?」
聞き返せば、そうよ、と言われて。
どういうことなのかと首を傾げれば、からかうような笑みを尚香は浮かべていて。
「この前、庭で膝枕してたでしょう?」
違う?と片目を瞑り悪戯の成功したような笑みをされて、は頬を染めた。
確かに庭で膝枕をして陸遜が寝ていたのは、つい先日のこと。
間違いのない事実なのだが、は誰かに見られていると思っていなかったのだ。
「尚香様、それはいつ―――――?」
「玄徳様と歩いてたときに偶然、ね」
尚香の夫君の名前まで出て、は更に顔を赤くした。
尚香に見られていたことは自国でも度々あったことで。
多少は恥ずかしいものの、必死で隠すほどのことではなく。
だが、いま滞在している国の主に見られていたとなると―――
「まあ、誰が見ててもいいんだから」
あっけらかんと明るく言ってのける尚香は、実際自分が見られていても平気なのだろう。
は恥ずかしくて顔向けできなくなるというのに。
「要は時々でも陸遜が確実に気を緩めて休める場所を、が作ってあげればいいのよ」
心配するよりもね。と言った尚香の後ろの扉が開き、今日の軍議の終わりを告げていた。
それから、戦地より吉報が入っていた。
崩れかけていた味方へ、他国からの援軍が来たという。
「一安心、ですわね」
危機を脱してからというもの、成都城内も静けさを取り戻そうとしていた。
軍議も数日前ほど忙しさを見せていない。
当面の戦に対することが、なくなったから。
「後方支援だけに徹していれば大丈夫そうです」
庭にある大木に背を預けて、と陸遜は並んで座っている。
その声音は切羽詰ったものではなく、至極穏やかだ。
援軍の知らせが届いてからというもの、伝令は絶え間なく送られてくる。
それは敵前線を崩したという報せであり、幻の兵の打破であり。
最新に送られてきたのは、敵本陣へと続く門が開かれたことだった。
「何が、望みなのでしょうね―――」
敵の軍勢の動きが不可解だと思うことがある。
個人的に己が武を試したいだけに戦っているのは呂布。
魔王の居なくなった土地を治め、上に上り詰めることを望んでいるのは政宗だ。
けれど彼らは時に、遠呂智の残党とも手を組んでいる。
妲己も清盛も目的は遠呂智の復活に違いはない。
けれど表立ってそこに何らかの繋がりがあるようには見えない。
「分かりません。ですが、阻止しなければいけないことは確かです」
敵の動向に常に頭を悩ませている陸遜の声は硬かった。
相手が何を思い、どういう目的でこちらに仕掛けてくるのか。
分からないことが多すぎる、いまの現状は。
「何故、そっとしておいては頂けないのでしょうね」
魔王の復活を企むだけならば、平穏に過ごしていた勢力を乱す必要はない。
だというのに、乱し、手を取り合うように仕向けていて。
こちらに何をさせたいのか、理解不能だ。
今回、仙界から降りてきたという太公望達は何か知っているのかもしれない。
けれど全面的に人間を信じていない彼らは、何も教えてはくれないだろう。
いまも、独自の方法でいろいろと調べまわっている。
その上、普段どこに居るのかも分からないくらい、神出鬼没だ。
「大丈夫ですよ」
目を伏せて暗い面持ちになっていたを、ふわりとぬくもりが包む。
気が付けば陸遜に抱き締められ、耳元に囁きが落ちた。
「何があっても離れません。私が殿を守り抜いてみせます」
ぎゅっと力を込められて、は陸遜の肩に頭を乗せた。
すぐ近くにある鼓動と吐息を聞いて、心が安らいでいくのを感じて。
ゆっくりとその背に手を回した。
「私も、離れませんわ―――――」
清盛軍に勝ったとの報告が届き、城内は湧いた。
数日中には凱旋するであろう味方を受け入れる準備を始める。
もその中で一緒になって働いていた。
一頻り迎え入れる準備が整ってしまえば、後は何もすることがない。
書庫から数冊の書物を見繕い、は庭に来ていた。
ここで過ごし始めてから、最早定位置になってしまっている場所に。
ぱらりぱらりと一定の速さで紙が擦れる音だけが聞こえてくる。
本来なら鳥の囀りが心地良い場所なのだろうが、いまは全然聞こえてこない。
昼夜問わずどんよりと赤みの混じった暗い空だからか。
さくさくと土と草を踏み締める音がに近付いてきた。
ふとその気配を見止めて、は顔を上げる。
そこには同じように書物を持った陸遜が立っていた。
「陸遜様も、お休みですか?」
「ええ。久しぶりに本でも読もうと思いまして」
休みといっても仕事がないわけではなく。
ただ大きな仕事が終わって少し空いた時間を、そう使っているだけだ。
また新たなものが入れば、そちらに戻ってしまう。
の横に腰を降ろし、陸遜も静かに本を捲り始める。
それを見てから、もまた本へと視線を戻した。
お互い何も言わない、肩を並べて書物を眺めているだけ。
それでも別に気まずいことなど何もなくて。
共に在る空間が、心を穏やかにしてくれる。
一冊の書を読み終えて、違うものと換えようとしたに重みが掛かる。
字列を追っている間に眠くなったのか、陸遜が寄り掛かって眠っていた。
の肩から首筋に顔を埋めるようにして。
(疲れているのでしょうね)
くすっと笑って、はそっと陸遜の身体を支える。
起こさないように頭を膝に移動させると、書を手に取った。
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